レッドタートル ある島の物語

実に感動した。 ただこれを面白いと観られる人ってかなり少数派だと思う。
男が漂流して無人島に流れ着いて、そこで赤いウミガメと出会うっていうストーリー。
なんかもうね、退屈だと思ってずっと手を出さなかったんだけど、もっと早く観るべきだった。
じつは無人島ものはけっこう好きで、子供のころはロビンソンクルーソーや神秘島を読んでたし、青い珊瑚礁やブルーラグーンやキャストアウェイや東京島なんかも観てます。
無人島ものの共通点として、いきなり自分が何もないところからスタートするっていうのがある。それまでの人生や考えや、財産や持ち物なんかもすべて失ってほぼ0からのスタート。
無人島ではさまざまな困難に立ち向かっていくなかでドラマが生まれるのが面白いわけだけど。
これってある意味で人生そのものを表しているような気がする。
普通のドラマだと、主人公にはもちろん肩書や特技や生まれ育った背景なんかがあって、 そして主人公をとりまく環境が大きく影響していくわけ。
その点、無人島っていうのはなにもないところからのスタートでまさに 人生そのものって感じがする。
てなわけで、そういった面からこのレッドタートルを鑑賞するとすごく感動できる。
ほとんどの人がこの映画が難解だと思っているけれども、 そんなに難しく考える必要なんかない、ただの男女の話である。
監督はオランダ出身らしいんだけど、 そこのところも少し考慮に入れておく必要があるかもしれない。
オランダの有名な画家にフェルメールという人がいるけど、 彼は生涯自分の生まれ育った町からは出なかったそうだ。
それなのに、彼の作品には世界地図が頻繁に登場するし、 いち早く風景画を芸術として描いていたり、手紙を題材にしたりしている。
今みたいにインターネットもテレビなんかもない時代にもかかわらず、 すごく視点が新しいし、視野が広い。
日蘭貿易をしていたくらいで、 オランダは世界を駆け巡っていてきっと世界全体をとらえることができたんじゃないかと思う。
このレッドタートル ある島の物語もそう。
登場する島自体が人生の舞台となっている。
そう考えると実にシンプルに鑑賞できる。
男が三回もイカダが壊れた結果、 結局島に戻るのはそういう理不尽なことがあるのが人生だからだ。
何度も何度も注意して見てみるし、警戒もするけど、原因なんてわからないし、 回避しようがない厄介ごとが人生にはつきものだとういうこと。
事実、物語の後半でなんの脈絡もなく津波が襲う。 これも理不尽極まりないことだが、避けようのないこととして描かれている。
男が作りかけのイカダを海に流すのは、そうやって抗うことをやめて島(自分の流れ着いた場所、自分の今いる場所や環境) に腰を落ち着ける気になったということの現れ。
途中、オーケストラなんかが現れるのは、 男の理想(より良い暮らしや文明的な生活=物質に溢れた現代社会) への渇望の現れそのもの。
冒頭で男が嵐に襲われて島に漂着するのも、なぜかという描写はない。
なぜなら必要ないから。
この映画において、嵐に襲われる理由なんてとくに重要じゃないから。
人生はいつ嵐に襲われるかわからないということ。
順調に航海しているつもりでも、いつ乗っている船が転覆するかもわからないし、 あるいはなにかの理由で乗っている船から落ちたり落とされたりするかもしれない。
そして、命からがら島にたどりついても、 助かったことに感謝するのはわずかな時間だけで、すぐに復帰しようともがく。
このもがく様子がイカダに表れている。
すぐにイカダを作ったり(時間的にはすごく早い)イカダがあまりに貧相な状態でも、本人も(あるいは観ている観客でさえ) 少しでも早くこんななにもない無人島からはおさらばしたいと思う。
それは冷静に考えれば無謀なことなのである。
この映画の最中で救助船や救助隊の類は一切描写されない。
つまり主人公の男が助かる可能性は限りなく0に近い。
にもかかわらず、何度もイカダを作っては無謀な挑戦をしようとするのだ。
そのたびに、イカダはなんらかの理由で壊れ、男は島へと戻っていく。
大きなイカダを作った分だけ、島に戻るのも大変だ(それだけ沖へと行ってしまっているから)
なぜ壊れるのかは、さほど重要じゃない。
冒頭で主人公の男がなぜ嵐にあっているのかが重要じゃないのと一緒。
理不尽なのが人生。
人生においても、一度すべてを失ったところから、もとの状態に戻るのは並大抵のことではない。
ましてやその戻る手段がちゃんとしたものではなく、そのへんにあるもので、 とりあえず作ったようなまにあわせのものではだめだ。
なんらかの理由で必ず失敗するだろう。
それが男のイカダが失敗する理由だ。
私たち現代人はとかく答えを求めがちなので、この映画が難解に観えてしまう。
この映画はあえてしっかりと描写しないことで、ちゃんと表現しているのだ。
ただし、これに気が付くにはある程度無人島ものを観ていないと難しいかもしれない。
レッドタートルがイカダを壊す描写は実は一度もない。
だが、イカダが壊れる直前と壊れた直後にレッドタートルを男は見ているので、 このレッドタートルが壊したと思い込む。
そう、またしても私たち現代人と同じなのだ、この男は。
ハッキリとしているわけではないのに、 答えを求めすぎな私たち現代人はそこにレッドタートルがいればそいつのせいにしてしまう。
事実、男はレッドタートルが陸に上がってきたところでひっくり返して、自由を奪ってしまう。
ちょっと脱線してしまうかもしれないが、 なぜこのカメが赤を表す「レッド」タートルなのかを政治的に考えると、この映画は国際バランスも絡んだ映画として解釈できるかもしれないが、 今回はやめとく。(それくらいイカダを転覆ってあまりにも露骨すぎる)
話をもどそう。
男はレッドタートルが気になりはじめ、水をやったりした結果、 なんとこのレッドタートルは女になるのである。
ここで大半の人は考えることをやめてしまうだろう。
なあんだファンタジーか、 監督のやりたいことだけやってる不思議映画かあと放棄してしまうのはもったいない。
キャストアウェイでトムハンクスがボールに目鼻を描いて友達にしたように、無人島という世界は孤独なのだ。
そう、私たちの人生にも孤独はつきまとっている。
男にとって敵だと思ったものは男の考えや行動次第で一生の伴侶にもなりうるのである。
星の王子さまでサンテグジュペリが書いているように、 人は自分がかけた手間や時間が愛情に変化する面も持っている。
男にとって大切なものになった瞬間は、どうでもいいものがある日別のものに見えるということ。
つまり恋なんですよ。
恋をするとあばたもえくぼというが、どうでもいい存在だった人間が、 ある日大切な人(気になる人)になったり、友達から恋人になったり、敵から味方になったり、ウミガメだと思っていたものが女になったりするわけである。
女になるその直前に甲羅が割れる描写があるが、 つまりは殻を割る必要があるということ。
女のほうは殻を割り、男は水や直射日光を遮る日陰などをやれば、 男女の仲になりますよっていうこと。
間違っても竹で頭をしばくのではなく、優しく扱ってあげることが大事だという教訓です。
ウミガメがこの映画にはけっこう出てくるんだけど、これもちょっと考えるとすぐわかる。
映画の最初のほうにもちっちゃなウミガメが海に必死に向かう姿がかわいい。
わかりやすくするために、強引に解釈しちゃうと (ほんとは決めつけないで観たほうが楽しいんだけど) 海を現代の大都会と考えて、無人島を過疎化が進んだ田舎(だれからも見放された田舎)と考えると実に単純だ。
子供はどんどん都会へと進出していって、田舎にはなにも残らない。
前へ進むことのできないカニばかりが残される。
カニは主人公である男の行動をマネしたりはするが、決して決定的な行動はとらない。
カニの動きや動作自体がコミカルで和ませたり笑わせたりする存在として描かれてるけど、強引に解釈すれば、これって田舎に残された人に見えてくる。(ちなみにカニは白い=白髪=高齢者を連想させる。わかりやすくするための強引な解釈)
カニの動きを観て、頑張っているなと思えない時点で、 すでにこの映画の手法にのせられちゃってるんですよ。
事実、カニは主人公に興味津々で、一番大きなイカダを作った時なんて、ちゃっかりイカダに乗り込んでたんですから。(チャンスがあるなら大都会に行ってみたいのでしょうか)
そのくせ、男がイカダづくりをやめたあとからはあまり登場しなくなるんです。(ただ子供には関心があるみたい)
ちなみにアカウミガメという種類のカメは、生まれた直後と産卵時以外は陸に上がることはまずないんですよ。
つまり、レッドタートルが陸地に上がってきていた時、もしかしたら産卵するところだったのかもしれないんですよね。
男が都会に復帰しようとしているときに、目の前に現れたUターンしてきた女を見て、自分がうまくいかないのはこの女のせいだーみたいな逆上↓
男が反省して優しく接していくうちに女も自分の殻を割る↓
男の中で、ウミガメではなく、女になる↓
女は海の中で男をじっと見つめてどうしようか考える↓
男は女に自分の服を上げて、丸裸にならないようにしてあげる(衣食住である最後の衣がここで揃うことから生活の面倒をみるということですね。水や魚を与える描写や、女を日光から守る日陰はすでにレッドタートルに与えてあります)↓
女はもう都会に戻る意思はなく、自分が今まで閉じこもってきた殻を海に流す↓
男も女のそばにいようと決心して作りかけのイカダを海に流す
みたいな流れが実にスマートに描写されていくんです (細かい順番は少し違うかもだけど)
上記はあくまでも、海を都会として考え、無人島を誰もいない過疎化した田舎と想定した一例としての話だけど、あえてちゃんと描写していないので、いくらでも考えられるところがこの映画のすごいところなんですよ。(例えば海を宇宙で、無人島を地球とかね)
まあせっかくなので、この想定したままで続きもいくとすると(ほんとはあえて想定しないで人生という大きな流れという考えで観たほうが絶対に楽しいんだけど、この映画が難解でつまんないという評判があまりにも多いのであえてわかりやすくするために、乱暴な想定をしています)
やがて男と女は腰をすえてこのなにもない無人島で生活していく。
女はUターンしてきたくらいで、もともとこの無人島の生活には詳しいらしく、男に貝の食べ方を教える。
やがて二人の間に子供ができる。
この子供はウミガメである
女の血が流れているため、(都会を泳ぐ力があるため)海で泳ぐのが得意であり、ウミガメとも仲良し。
そして、海からの漂着物であるガラス瓶を見つけた子供は、それ以来すごく大切にする(やはり都会の情報がわずかに入ってくるのでしょう。それに憧れを感じてしまうのは若者特有の個性のはず)
そしてあるとき大きな津波が島を襲う。
子供は漂着物であるガラス瓶に水を入れに行っていたおかげで助かる(実は海岸に戻るんですが、すぐに引き返します。つまり都会のものがあったおかげで海岸から離れていたんです。これをケータイと考えるのもおもしろいと思います。水の補充はつまり充電ですね)
もとウミガメの女は津波の存在を知っていたのか、いち早く気づいて逃げようとするが、男のほうは津波に見入ってしまい、逃げられない(この辺の描写がすごくうまいです。男は危機管理能力がないということですね。だからイカダも転覆するし、嵐にも巻き込まれてしまったのかもしれません。いずれにしてもこのウミガメがいなければ、今日まで生き残れなかったでしょう)
そして、子供は無事に助かり、まず女を助けます。
男は沖に流されてしまっていたのを子供とウミガメが助けます(子供もウミガメも世間を泳ぐ能力が高いということです)
男はウミガメに運ばれてなんとか助かりますが、先ほどまで登場していたカニなんかは死んでしまっています(先ほどの想定でいくと、カニとはつまり…)
男と女と子供で海辺を掃除して大きなたき火をします(すごく意味深ですよね。今回は政治的な解釈はしません。天災に見舞われたあとの大きなたき火。救助隊に見せるためでしょうか)
たき火のあとも、子供はずっと海のほうを見つめています。
救助隊はもちろんきません。
こんなすごい天災にあったのにだれも助けにきてくれないことを嘆いているのか、それとも改めてこのなにもない無人島では無力だと悟ったのか。
子供はガラス瓶に入った水と海の水平線を合わせてみます。
水は同じように見えたことでしょう。
このガラス瓶は実は透明なんですが、これができるのは子供だけ。
男も女も竹筒で水を飲んでいるので当然ながら、こんな風に合わせることはできません。
子供ならではの純粋で透き通った心をよく表現しているシーンだと思いました。
子供はかなり大きく青年になっています。
子供はある日海岸を歩いていると、波が盛り上がった壁を見るのですが、
泳ぎが得意な子供は波のてっぺんまで泳げるんですよね。
そして、波の外側の広い海と、陸地にいる男と女を見比べるわけです。
つまりかなり高い波がきてもこの子供なら泳げるだろうということを表しているんですが、これ、かなり高い波なんですよ。
普通なら危ないなあって思うところが、この子供には全然へっちゃらなんでしょうね。
第三者(観客)がみて無謀だなあって思うくらいの波でも平気で、 越えられると思い込んでいるっていう、うまい描写だなって思うわけですよ。
ついに子供が男と女に別れを告げて、ウミガメと一緒に島を泳いで離れていくんですね。
ウミガメは基本的には海で生活すると思うので、半分ウミガメであるこの子供は今までよく男と女のそばにいてくれたなって感動するシーンです。
そして、年老いた男と女の生活が少しだけ描写されたあと、男は海のほうを見ながら息絶えるんです。
これ、男は最後になにを想っていたのか想像すると楽しいです。
無人島で最期を迎えるにあたって、やっぱり都会へ返り咲きたかったという思いなのか、それとも都会へと泳いでいった子供を想っているのか、はたまた見慣れた日常風景である海辺を見ながら満足した思いだったのか。
女は気づき悲しみますが、男の手と合わせた自分の手がレッドタートルに戻っていきます。
そして最後は海に向かっていって終わりです。
単純に考えれば、息子のあとを追いかけるのかなって思いますが、いくらでも考えられると思います。
男が死ぬことで、ウミガメにもどることから、最初から最後までウミガメを人間として扱って見えていたってことも考えられます。
あまりにも孤独で、レッドタートルを頭の中で人間に置き換えちゃったんですよね。
ただ、最後にまた甲羅が復活していることから、やはりこの女は男の死によって、一つまた殻をかぶっちゃったんだと思うんです。
そして、その殻に閉じこもったまま海へと向かうことから、やはり殻がないとこの広い海で生きていくことはできないんでしょうね。
そもそも殻=甲羅を持たない男はかなりもろく、このレッドタートルがいないと生きていけない存在なのかもしれません。
生きるとはどういうことで、命はどこへいくのかという普遍的なテーマを、難しくなく、そして綺麗な風景で描いている映画でした。
個人的にはすごく感動した映画だったなあと思います。
80分という短い時間で鑑賞できるのもポイント高いですし、セリフもありません。
セリフがないことから、言葉がなくてもわかりあえるということなのか、あるいは言葉よりも行動が大事なのかとか、
セリフがないことから、女はやっぱりレッドタートルのままで、人間に見えていたのはすべて男の頭の産物なのかとか、いろいろ考えられるのもいいところです。
ですが、セリフがないことからある意味、完成していると思います。
セリフがないからこそ絵と音楽のいい雰囲気がより強調されたように思えました。
すごくきれいなんですよね、背景が。
音楽もすごく癒されたりする。
こういう作品ってすごく上品だと思います。