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サイコキネシス-念力-

昔テイストなかっこ悪いスーパーヒーロー映画。でもそこが良い。

ヨン・サンホ監督は韓国社会を痛烈に批判したメッセージ性の強い映画を作ってる社会派映画監督。

韓国社会を痛烈に批判してますが、実は日本社会にもかなり通じるものがあります。

そのため、我々日本人としては隣国の韓国を批判している映画を観ているんだけれど、自分の国も批判されているように感じられる不思議な映画ばかり。

まさに「人の振り見て我が振り直せ」映画なのであります。

『フェイク〜我は神なり』でもやった「冴えない中年男と反抗的な娘」が中心の映画(ヨン・サンホ監督はこの組み合わせが大好きなようです)

この『サイコキネシス-念力-』は『フェイク〜我は神なり』を単純化してハリウッドのマーベル作品っぽいスーパーヒーロー物にした感じの作品。

無責任で社会に絶望して世間に対して斜に構えてる冴えない中年男の主人公。

ある日手に入れた超能力である「念力」を使って一儲けを企むけれど、ちょうどそのころ離婚した妻が死に、娘から電話を受けて久々に再会するってストーリー。

娘が大手建設会社(が雇ったヤクザ)に立ち退きを迫られているっていうのがこの映画のストーリーの軸なんだけど。

あの、これって現代の映画なんだよね(スマホが登場するから現代という設定のはず)

見た目もやり方もまんま昭和のヤクザでビックリした。

立ち退き料を払わずにスプレーで落書きしたり窓ガラス割ったり、無理やり店や車から引っ張り出されたり。

鉄パイプに安全帽で太った汗臭そうな男たちが夜中に突然集団で襲ってくるんだから恐ろしい(最後はショベルカーで無理矢理実行。警察もいるから抵抗すれば公務執行妨害)

警官隊と火炎瓶でやり合うシーンはなんだか安保闘争を観てるみたいだった。

娘を守るために車で突っ込む母親。強引に引っ張り出されて頭を強打して死亡。

この一連のやり取りを見て、ああ、昔の日本もそうだったなあと懐かしい気持ちになる。

日本でもチッソという会社がヤクザを雇って水俣病患者を嫌がらせした過去がある(ちなみにチッソという会社は今でも健在である。なお、日本において暴力団対策法の施行は平成3年。暴力団排除の規定は平成16年。総合的な暴力団排除条例が施行されたのは平成22年のことです)

財閥とそれに買収されている警察。実際に立ち退きを迫る実行部隊は日雇い派遣のバイト。

財閥は法律の網目を潜って合法的に酷いことをしている(財閥の大企業に逆らうことは国に逆らうことと事実上同じ)

潤沢な資金を使って裏で貧乏人を操り意のままに操る感じがよく描けていました。

そしてそれを指示する財閥のお嬢様(黒幕)が派手な美人っていうのも象徴的(主人公の地味系娘と正反対のタイプの女性)

最も象徴的なのは財閥のお嬢様と主人公が警察の取調べ室で会話するシーン。

財閥の資金の庇護のもと生きていくか、前科者の娘と苦しい生活をするかと、二択を迫る

そして第3の道としてクーデターを助けるか。(そんなことをしたら主人公が逮捕されるのは確実なわけで。つまり財閥の奴隷になっていい生活をするか、あるいは超能力を使って自力で小金を稼ぐか、あるいは全てを失ってまで娘を助けるか。松竹梅の未来を選ばされる)

クーデターを助けたところで、警察が出動しちゃってる時点ですでに主人公に勝ち目はないわけで。

法治国家である以上、警察が動いてしまったら例え主張が正しくとも悪者になってしまう(だから主人公の娘がやってることはクーデターとして扱われている)

娘とその商店街の人々を助けるために主人公は留置場から脱走して助けにいく。

主人公は念力を使うけど、大事なのは誰一人として殺してないんだよね。

だからこそ4年で出所できたわけだけど。

警察や特殊部隊相手に大立ち回りを演じても結果は変えられないわけで(政府首脳や軍隊を壊滅させて自分が独裁者になりたいわけじゃない。というかさすがにそこまでは無理)

あくまでも娘と商店街の人々という一般大衆からしたらほんとどうでもいいような(でも自分にとっては大事な)存在を守るために行動する。

例え超能力を使ってもこの国や経済の体質は変えられないという結論がこの映画をビターな味付けにしてる(超能力で世界を救う系のハリウッドとは違ってすごく現実的)

超能力を授かったとしても世界を変えることはできないという一種のあきらめがこの映画の背景にある。

それは映画作りの才能を授かったこのヨン・サンホ監督自身の姿でもある。

そう、これは個人的な見解なんだけど、この主人公は監督自身の投影なんだと思う。

冴えない小太りの中年男が主役の映画じゃそもそも一般大衆に受け入れられない(イケメン俳優を使わないこだわり。『アジョシ』とは全然違う)

そして社会の仕組みを知っていて、要領良く生きる手段も知っている(ゾンビ映画は大当たりだった)

でも結局義侠心だったり、家族愛だったり、韓国という社会自体を見捨てられない愛があるからこそ、こういう映画(大衆ウケの悪い映画)を作り続けるんだと思う。

念力は触れなくても間接的に動かせるわけで。

つまり映画を観た人々の気持ちを(間接的に)動かす主人公=監督自身というわけ。

だからこそ、主人公が念力を操っているときはめちゃめちゃ力を振り絞っていて、めっちゃブサイクな感じになってるんだと思う(映画製作も力を振り絞って見た目もキレイではいられない)

せっかく映画を撮るんだからもっと一般大衆受けの良い映画(つまりマーベル作品みたいなスーパーヒーロー物)を作ればいいのに、あえてダサい映画作りをするのも主人公と似てる。

主人公も財閥で働くのではなく、結局負けるとわかっているクーデターに力を貸す。

ただ、主人公が出所後に建設予定地を見るシーンで語られるように、財閥に依存している生活も決して安泰ではないとちゃんと警鐘を鳴らしている。(内部で不正が相次いで実情はボロボロ)

そもそも建設目的が中国人観光客向けの商業ビルのためっていうのがすでに象徴的すぎる(韓国経済は内需が少なく、外国の経済事情に左右されやすい)

結局商業ビルも建たず(つまりだれも儲かってない)もともとあった地元に親しまれる店を潰してお金をかけて警察まで動かしたけど、なんにも残らなかった。(このままの社会経済が続くと経済崩壊するよっていう暗示になってる)

なお、不正で一部の人は儲かったと推察できる。計画自体が完了しなくても計画を進行する段階で儲かる人たちがいるってこと。

一般庶民を虐めてまで計画を押し進めてもなんにも残らないところがかなり風刺が効いている。

つまり政府(と財閥)の経済政策が失敗しているとこの映画は語っている

(一般庶民を犠牲にして政府が計画を進めるのは日本も同じ。水俣病やオリンピック)

劇中ではローカル局のTV中継を通して一般大衆がこのクーデターを目撃しているわけだけど、この一般大衆はそのまま観客につながる。

この映画を観て実際にこういったこと(クーデターという意味ではなくて不正やズルによる一般庶民イジメ)が起こっているんだという現実を観せるわけだ。

劇中でもなにも変化がないように、観客である我々一般大衆も映像(映画)を観た時は色々考えるけれど、特になにも行動を起こさないことをこの監督に見透かされている気がする(例えば日本国民の投票率はかなり低い)

最終的に主人公は娘と商店街の人々とこじんまりと幸せになる。おそらく商店街の人々はヨン・サンホ監督のファンの象徴だと思う。

一部の人(例えば僕みたいな変人)には支持されるけれど、その他大勢の一般大衆にはあんまりウケが良くないっていうのがよくわかってるんだと思う。

たぶん監督として本当はこういう映画が作りたいんだろうけれど、ゾンビ物(『新感染』とか『ソウルステーションパンデミック』)が大ヒットしてそればっかり持ち上げられてることへの皮肉なんでしょうね。

個人的には『フェイク〜我は神なり』はけっこう心に残る社会派映画だったので、この『サイコキネシス-念力-』は薄味に感じてしまった。

例えるなら『フェイク〜我は神なり』がとんこつ醤油ラーメンなら、『サイコキネシス-念力-』はあっさり塩ラーメンって感じ。

でもその分鑑賞後の疲れもないし、伝わりやすい映画なので人にオススメしやすい映画でもある。(『フェイク〜我は神なり』はなかなか人にオススメしにくい。そもそもタイトルとパッケージ写真からして重そうだもんね。主人公も小汚いオッサンだからご婦人方は特に嫌がると思う)

財閥のお嬢様が乗ってる車がヒュンダイではなくてメルセデスなのも芸が細かい。

一つ言えることは、マーベルのスーパーヒーローはフィギュアが発売されてファンに人気だろうけれど、この主人公のフィギュアはおそらく発売されてもだれも買わないと思う(僕も欲しくない)

つまりヒーローはカッコいい存在だとだれしも思ってるけど、やっぱり見た目に大きく左右されている。

劇中でも財閥のお嬢様が「仮面でもつけて世界を救えば」って言ってるけど、現実のヒーローはこういう小汚いおっさんで、必死の形相で力を振り絞っているのだ。

汗だくで白目を剥きながら力を振り絞って今日も力一杯頑張っているヒーローを応援したくなりました。