醜聞(スキャンダル)

1950年の作品とは思えないくらい、現代の感覚に沿った映画だった。
68年前の日本でも現代と同じように物事の一部だけを見て、
判断するということが溢れている。
醜聞-スキャンダル-ではアムールという雑誌だけれども、
現代では文春砲やインターネットに置き換わっただけで、テーマは不変だ。
ストーリーとしては、真実を求めて企業と戦う一個人でハリウッド映画によく
あるようなやり手弁護士VSうだつの上がらない弁護士というわかりやすい構図。
ただ、この映画をよくある法廷バトルものの作品として見るだけではもったいない気がする。
もちろん68年前からある、法廷テクニックの数々を楽しむのも面白い。
三谷幸喜や周防正行の法廷ものと比べても黒澤流のどこかコメディともとれる証言の数々は
今なお面白い。同じようなシーンという意味で、同じく黒澤明の羅生門についても感想があるが
それはまた今度にする。
それよりも僕はこの醜聞-スキャンダル-という映画をすばらしいセリフに彩られた美しい映画と観たい。
例えば、悪徳出版社にスキャンダルを書かれた主人公の三船敏郎は、身の潔白を証明するため
訴訟に持ち込むが、依頼する弁護士が決まっていない。そこへ志村喬が現れ自分を売り込む。
相手の悪徳出版社の社長を散々非難した挙句こう言い放つ「私はああ言う奴を人類の一員とは認めたくないですな」
そして、ほかにも「幸せな人を不幸にするのはなかなか面白いことらしい」というセリフが現代を生きる私たちに突き刺さる。
プラトンが今の若者はゴシップに夢中で勉強しないと嘆いたころから、私たちの関心は常にそういう醜聞-スキャンダル-に向いている。
さらに現代人に追い打ちをかける言葉を志村喬は言う。
「あなた医者にかかりますか。慎重な人は主治医というやつをお持ちですな。」
けれども困ったときに相談する弁護士を身近に置いている人はなかなかいない、と。
ここでもアメリカと日本の違いを数字で説明して、日本がいかに訴訟関係で遅れているか、そしてそのことが
いかに危険な状態であるかを説明するのである。
くどいようだが、この映画は68年前の映画だ。
いまは弁護士があふれている日本になったが、志村喬が言う
「弁護士の悪い奴ほど悪い者はおらん」
は現代でもグサッとくる言葉だ。
結局主人公はこのうだつの上がらない志村喬弁護士に依頼し、ともに不利な訴訟を戦っていくことになる。
実は主人公の三船敏郎が依頼を決意したのには他にもある重要な要素があるのだが、ここではあえて言わないでおく。
物語が展開されていくと、この志村喬弁護士もまた、清廉潔白ではないことがわかってくる。
この志村喬の裏切り行為が物語の核心を突く部分でもあり、クライマックスになっていく。
主人公の三船敏郎もなんとなく、自分が裏切られていることを感じつつも、志村喬と夜の街にでかけ酒を飲んで帰ってくるシーン。
志村喬の家の近所にあるどぶ川に夜空の星が映り込んでいるのを見て、三船敏郎が言う
「人生は涙ぐましいな。こんなきったない町にもお星さまが住んでる」
そして、志村喬の娘のことをお星さまに例える。
汚いことをしている志村喬にもお星さまのような娘がいる。
志村喬自身も、いまに輝くかもしれないぞと言って励ますシーンがほんとに微笑ましい。
そしてこれが物語のラストへの伏線になっている。
主人公は物語のラストで記者たちに向かってこう言う
「ぼくたちはいまお星さまが生まれる瞬間を見たんだ」
つまりこの映画は現代にも通じるテーマを持った法廷バトルものでありながら、
お星さまが誕生するまでを描いた一種のファンタジー(夢物語)でもある。
この映画がすごいのはこれを混ぜこぜにして作っているところ。
実際の訴訟ではお星さまが誕生することはまれだろう。
だからこその夢物語でもあるのだ。
そしてそれを現代にも通じるテーマを持たせた法廷バトルというとても身近で普遍的なものと
混ぜ合わせてあるところがすごくうまいなあと思わせる。
どちらかだけではたぶん退屈な映画で終わっただろう。
単なる法廷バトル映画なんてそれこそいっぱいあるし、ただの夢物語を描いても空回りで終わってしまう。
現実世界ではなかなか起こらない奇跡を、起こりそうな夢物語として語っているからこそ、この映画は美しい映画と
それに伴う爽やかさがある。
他にも書ききれないすばらしいセリフの数々や三船敏郎の心の動きや、志村喬弁護士の奥さんや
主人公三船敏郎の絵のモデルなど魅力的な人物がいっぱい出てくる。
すばらしい作品だった。