カルメン故郷に帰る
コメディ調にしてるけど、実はとても深いテーマを持っている映画
ストリッパーが故郷の村に帰ってくる騒動を描いた映画なんだけど、実は根底に深いテーマが隠れている
女の人が働くということはどういうことか?
そして、芸術とはどういうことか?
歌は芸術だし、舞踊も芸術だと誰もが認めているけれど、ではそれを裸で披露したらそれは芸術なのか?という深いテーマ
裸の彫刻や絵画が芸術であるように、裸で踊っても芸術である、という建前と女の裸は金になるという本音
この建前と本音が田舎の村の人々のキャラクターを表している
元々小学校の音楽の先生だった盲目の作曲家が象徴的
戦争のせいで新婚一年で戦地に行き光を失ってしまい、今ではオルガンを弾いて歌を作るのがたった一つの生き甲斐
そのたった一つの楽しみを丸十という表向きは運送会社(実態はヤクザな金貸し)に借金のツケでオルガンを取られてしまう
この作曲家の男は目が見えないので働けず、子どもの小学校に行っては小学校に置いてあるオルガンを弾いている
貧乏で不運な自分の境遇を達観しているような口ぶりだが、本音ではオルガンを取られてしまったことにとても腹を立てている
それがわかるのが運動会で新曲を発表するシーン
主人公のカルメンの友だちが、丸十のオヤジに手を触られて、ビックリして立ち上がったとたん、スカートが脱げてしまって、それを見た一同が笑い転げる
それに腹を立ててこの盲目の作曲家は歌ってる途中で帰ってしまう
それくらい音楽に真剣であるのが伝わる
他にも細かいところで背景を語ろうとしている
この友達のスカートがすぐ落ちてしまうのは仕事仲間から服を借りていてサイズが合っていないから(つまり見栄を張っているわけだ)
丸十のオヤジは金持ちなのはみんな知っているが、村の人はみな金の亡者であるこのオヤジのことを本音ではバカにしているのがわかる(このオヤジめちゃめちゃチャップリンに似せようとがんばっている。つまり映画制作者自身がこのオヤジを笑い物にしているというメタ設定。特に指揮をしている演技はチャップリンをかなり意識しているはず)
この丸十のオヤジも本音ではみんなから尊敬されたくてしょうがないらしく、一生懸命に運動会では指揮をしたり、主人公のリリー・カルメンが踊る時に楽団を呼び寄せたりしている、がやはり人望がないのはどうしようもない
そしてこのオヤジを改心させるのが主人公であるリリー・カルメンの父親である
リリー・カルメンは運動会の騒動の後、なんと村でストリップショーをしようと思いつく。
ちなみにストリップショーはちゃんと大事な部分が映らないように観客に考慮してあるのでこの映画はそういうエロシーンを期待してはいけません(ハラリと布が落ちて、あとはステップをしてる足が映ってるだけです)
1951年版女性の勤労問題映画になっています。
村に到着したリリー・カルメンは馬車(といっても馬一頭で大八車を引くような質素なもの)で父親のいる牧場まで行くのだが、この馬を引っ張って歩いているのが、先ほど運動会で新作を発表した作曲家の奥さんなのである
東京でストリップ嬢として働いていて、派手な服装の主人公に対して、泥で汚れた地味な奥さんが汗だくで馬を引っ張っている画面がテーマを訴えかけてくる
つまり女性の勤労問題である
女性はこういう単純労働か性を売る仕事くらいしか稼ぐ手段がないということ
この映画は1951年の作品である(勤労婦人福祉法は1972年施行。1986年施行の男女雇用機会均等法はこの勤労婦人福祉法を一部改正して作られた。豆知識おわり)
小学校の校長先生もそれ以外の先生も他の要職についている人は誰一人女性はいない
単純労働につくか性を売るくらいしか女性は稼げないということをサラッと伝えてくる
主人公のカルメンはストリップ嬢なので当然ながら性を売り物にしているが明るくあっけらかんとしている
それは経験を積んですれているのではなく、自分の踊りが芸術であると考えているから
ここも深いテーマになっているが、はたしてストリップショーは芸術なのだろうかという問題を観客に考えさせる
ちなみに歌舞伎の基を作った阿国の「阿国歌舞伎」はいわゆる現代でいうストリップショーでした。それが紆余曲折を経て現代の歌舞伎となり、今日では歌舞伎は日本を代表する伝統芸能となっているのであります(当時の人はビックリ。ついでに阿国さんもビックリするはず)
つまり歌舞伎も元々はストリップショーだったんですね。それが流行ったから今日の歌舞伎があると言っても過言ではないわけで。やっぱり客が入らないと舞台芸術は発展していかないのです。発展するためには教養のない人にも支持される必要があるわけで(昔は識字率も低い)ある程度性的(エロ)なもののほうがウケるわけで(昔はAVとかもないし)
国会中継よりもバラエティ番組でポロリもあるグラビア祭りをしているほうが視聴者にはウケるわけで(今はコンプライアンスで作れないだろうけれど。昔は結構放送してたよね。テレビ業界が苦境なのはこういうのが作れないせいじゃないかと思う)
いつの時代も性的な欲求は舞台芸術にはつきもの(アイドルがセクシーな格好で歌うのも同じ理由でしょ。歌を歌うのに太ももや胸を強調するのはなぜ?演歌歌手は着物で露出が少ないですね)
そういう観点で考えるとストリップショーは芸術なのだろうか。
そしてそれを深く考えずに芸術だと騒ぎ、カルメンをその気にさせて金儲けを考える人(丸十のオヤジたち)を登場させることで女性の労働問題を含めた性産業についても簡単に仕組みを観客に教えてくれる
主人公に表向き快く接してくれる姉も本音では主人公のお金が目当てだというのが最後のほうに馬車で駅まで送る道すがらしゃべってしまう(お父さんがお金を受け取らなければ姉である自分のものになるから、お父さん受け取らないといいなあとか)
たびたび仕送りをしてくる妹を建前では理解あるように接していながら本音では結局、金である
印象的なのは校長先生が踊りをやめるように主人公の父親に直談判しにいくところ
父親にストリップショーのことを話して、「若者に悪影響だから見過ごせない」とやめるように言ってくる
父親も校長先生と一緒に主人公にストリップショーをやめるよう説得に向かう
そしてその途中に象徴的な木が立っている
この木が葉っぱも少なくて寂しそうにポツンと立っているのが印象的(主人公は昔、この木のそばで牛に蹴られて口から泡を吹いて倒れていたらしい。父親いわく、それいらい頭が少し足りなくなってしまったとのこと)
父親が思い出したように木を見つめて校長を説得する
ここがいいシーン。
「娘の恥ずかしいとこなんか見たくねえだ。あんたも見ないでおくんなせえ」と言って、まずは校長先生の足を止める(主人公は翌日のストリップショーの練習をしているらしく、その音が遠くから聞こえているため)
そのあと泣き崩れながら主人公のことを大切に思っていると告白する(村の人に対して恥ずかしいと思って主人公を雑に扱っているように見えたが、違うことがここでわかる。主人公のことをとても大切に思っていたのである)
「女が東京なんかへ飛び出して、ましてあんな頭の足りん子が、そんなまともに食っていけるわけはねえです。どうせみっともない商売をしてたか、とにかく生まれたまんまの体じゃねえです。それがまともな亭主も持たないで、いくら芸術だか文化になってくれたって、わしがうれしいはずがねえじゃありませんか。憎いと思ったりかわいいと思ったり口じゃ怒ってても心配で心配で」
もうね、名台詞だと思う。たくさん男性経験を積んでいるっていうのを「生まれたまんまの体じゃない」って表現の仕方がとっても上品です(「汚れた」とか「傷もの」とか「中古」とか言わない。そこに愛がある)
映画の冒頭で馬の世話をしている主人公のお父さんに、姉が主人公からの手紙が届いたのを知らせるシーンから始まるんだけど、お父さんすごくぶっきらぼうでムスッとしてるんだよね
それが本音ではこう思ってたんだなっていうのがわかって、じんわり心があったかくなるいいシーン
そして主人公のことを応援してあげようという親心で次のセリフを言う
「踊りたいってもんなら踊らしてやろうじゃありませんか。笑い者になるなら、なったってかまいやせん。どうせ生んだのが親の不運でさぁ。この木の下で牛に蹴っ飛ばされたのが、あいつの不運でさぁ。わしも一緒に笑われますだ。あいつの踊りが村の若い衆のためにならねえんなら、そんなもん政府で…東京でだって許しておかなきゃええだ。日本のド真ん中で踊ってる踊りなら、この山ん中で踊ったって立派なもんに決まってますだ。ああきっと芸術ってもんでしょうよ」
これ、名台詞だと思う。これが親心ってやつなんだと観客に訴えてくる。
性産業で働く娘を(牛に蹴られたせいで頭が足りないことも含めて)受け入れて応援している父親
しかもこのことを主人公には言わないでくれと、自分の気持ちを主人公には言わない
校長先生も競輪を政府が認めているくらいだからストリップショーだっていいじゃないかと主人公への説得をやめる
しかし、金儲けを企てている(主人公をけしかけている)丸十のオヤジに対して、父親と校長先生はお灸をすえに行く。
芸術のためと言ってうまく煙に巻こうとする丸十のオヤジ。
「うまいこと言うのはやめてもらおう」と父親は言う。こうやって商売にして悪儲けをする性産業にたいして芸術のためという言い逃れはやめてほしいと。
父親も本音を言えば、娘がストリップショーをやるなんてつらいわけだ。でも頭の足りない娘が生きるためにプライドを持って踊るなら応援しようと思うが、そういう頭の足りない女に漬け込んで悪儲けをしようとするのは良くないと、この映画では訴えかけてくる
「わしは親だからちゃんと分かってるだ。子供んときからいつも学校はビリっけつ。18になるまではな垂らしてたヤツが、そんな立派な芸術とかいうもんができるわけはねえだ」
と。例えば性産業の世界では「キャスト」とか「女優」と呼んでいかにも演じているというふうに錯覚させて、そういう行為への抵抗感をなくしている
このような錯覚をさせるようなやり方でうまいこと言うのはやめてもらおう、というのがこの映画での主張である
ストリップショーが淫らなものであることはわかりきっているわけで(少なくとも鑑賞者は芸術鑑賞目的ではなくエロ目的)それなのに綺麗事を並べて悪儲けをするのは良くないというわけ
「あいつの裸をからかっているに違えねえだ」という父親のセリフに対して丸十のオヤジが「そんなことはないよ」と言っているが、実際はからかっているのである。
それはラストシーン、主人公が列車で帰って行く時に村の者がみんな口々に主人公をからかう(そこで裸になれよ、とか。途端に軽い女だと露骨にバカにしている)
これが世間の実際のところなんだと、わかりやすく作ってある
最初にこの村に主人公が列車でやってきた時はみんなチヤホヤしていたのに、帰る時は(ストリップショーをした後は)みんなが主人公をとても軽く扱っている
これが性産業で働く女の人への世間の扱い(正確には田舎での扱い)であるとストレートに表現をしてくる
盲目の作曲家からオルガンを取り上げたくせに文化だの人のためだなんて、そんな立派な心があってたまるもんか。と父親に言われて、それがちゃんと最後の伏線になっているのもいい
結局、丸十のオヤジはオルガンを盲目の作曲家に渡す(もちろんストリップショーで儲かったからという理由もあるが)
父親も主人公からもらったお金(主人公は村でのストリップショーで稼いだお金をすべて父親にあげた)を小学校に寄付して村や芸術家の育成に役立てようとする
そうすることで主人公である娘が、故郷に錦を飾ったことになると考えての行動である
ちなみに校長先生も父親もストリップショーは観に行かない。父親はひたすら酒を飲んで泣き崩れているので、観客としては映画を観ててつらいシーンとなっている。
他にも映画として面白い工夫はいくつかある。
例えばストリップショーを観にきている人、普通におばあさん(老女)がおにぎり食べながら観てるのは笑える
他にも登場人物の出し方がうまい
冒頭で主人公の姉が父親のところへ走ってやってくる。2人のやりとりから家族が帰ってくるのが伝わるが、芸名のリリー・カルメンをヂヂー・カルメンと間違えたり(田舎という設定のためにわざと訛って演じているため)
そしてその姉が小学校に行き、今度は男が姉に向かって行く(小学生が踊っている中でちょび髭のオッサンが一緒に踊っているのはなかなかシュールな映像)
そして2人のやりとりから夫婦であることがわかり、校長に話す。そして校長先生が登場する傍らで、子どもが校庭から離れていき、帰ろうと男に話しかける。話しかけられた男は父親で白杖を持っていることから目が不自由だとわかる。
そして主人公の父親のもとに馬を連れて話をしている女の人が出てきて、会話からこの女の人が盲目の男の奥さんだとわかる。
という風にゆっくりしたテンポで一人ずつ人物紹介をしていくのでとても丁寧。
手紙が姉に行き、姉が父親へ、同じ姉が夫へ、そして校長へ、そして盲目の作曲家からその奥さんへと流れるような紹介の仕方はスマートだと思った。
そしてこの映画は音楽がとても秀逸。
盲目の作曲家が新作を披露するのだが、まあなんと悲しい旋律ですこと。
故郷を想って歌っているのだが、悲しさ満点の曲となっており、1951年はやっぱり戦後間もない頃で、国民の気持ちが落ち込んでいたのかなと考えさせられる。
そしてその後に主人公が馬車で歌うシーンは対照的にとても明るい歌。
所々にクラシックを流したりして、音楽の使い方が好印象でした(ラストの列車で帰って行く時は村人が蛍の光を歌っている。岡本喜八の『血と砂』も音楽の使い方が良かった。昔の映画は音質が悪いけど、音楽の選曲はセンスあると思う)
この盲目の作曲家が先生をしていたころに主人公のカルメンは生徒だったらしく、想いを寄せていた描写があるのが憎い演出(音楽の先生の影響で自分も芸術をしたいと思い、自分のできる芸術といえばストリップショーだったのだろうなあと思わせる。皮肉なことに、この先生は盲目になってしまったので主人公のストリップショーを観ることはできないのである)
不思議と優しい色合いで昔の田舎の風景をたっぷり堪能できる。軽井沢って昔はこんな感じだったんだなあ、と。
のどかな風景に癒されながら、コメディ調で軽く観られる映画かと思ったら、とんでもなく深いテーマが散りばめられていて驚いた。
これが映画という芸術なんだと思いました。
以下蛇足
この作品は日本で初めてのカラー映画だそうです。
そのためか、やはりちょっと技術的に鑑賞しづらく、特に冒頭のオープニングは画面がユラユラしてるし、色味も安定しないので人によっては気持ち悪くなるかもしれません。
また音声に関しては、録音技術が未発達なせいと、田舎の村という設定からセリフが訛っていて非常に聞き取りづらくなっています(特に人物名。主人公のカルメンは「きん」っていう名前。最初はわけがわからなかった)
できれば字幕をつけて鑑賞すると、素晴らしいセリフを堪能しやすくなるはず。
なお、校長先生の役を演じているのは笠智衆(『男はつらいよ』のお寺の御前様)
この作品の笠智衆が、私の祖父の父親(ひいお爺さん)にソックリだったのが衝撃だった。特に和服姿が似てた。