トゥルーノース

トゥルーノース

昔懐かしい安っぽいCG映画。北朝鮮を舞台にしているけれど、実は日本の格差社会について描いている映画

いわゆる強制収容所ものです

有名なところだと『ライフ・イズ・ビューティフル』という作品があるけど、こっちは舞台が北朝鮮で出てくる人がアジア系なのでより身近に感じられます

格差が広がる日本において、未来がどうなるかを垣間見ることができる映画となっています

北朝鮮は国の成り立ち(ソ連)からして共産主義なので、格差はないようにも見えますが、実際はものすごい格差があるのはすでにご存知の通りかと思います

その格差とはいわゆる階級社会であって軍人(党のお偉いさん)が1番偉くてそれ以外はみんなゴミという感覚

右であっても左であっても行きつく先は結局一緒で超格差社会であるという結論です

日本も憲法を改正し、軍隊を持とうと議論が進められています。より強力な軍隊とは強力な兵器を所持している軍隊なわけで、それは現時点においては核兵器であることはだれもが知る事実

北朝鮮は核兵器など軍事に予算を極振りしているせいで、民間人は食べるものにも困っている有り様

ある程度裕福な人々ももちろんいるわけで、そういう人たちは一見するとそこまで貧しい暮らしをしているようには見えない(主人公の家族がそう)

でもある程度裕福な人々はある程度の知識層なわけで、そういう人たちは政治に疑問を抱いたり今の世の中に疑問を持つわけですね(そもそもその日暮らしだと政治について考える余裕もない)

あまりにも広がる格差社会と監視社会に疑問を持つわけです

この監視社会というのは戦時中の特高警察やゲシュタポなどを彷彿とさせますが、じつは現代日本も監視社会になりつつあります

街中には至る所に監視カメラが仕掛けられていて、人々がみんなスマホを持ち、なにかあればすぐにSNSで広まる現代日本社会も一種の監視社会ではないかと思えるんです(コロナ禍でのマスク警察やコロナ感染者への嫌がらせなどもあった)

現代日本ではSNSで炎上して謝罪に追い込まれるくらいですが、この監視社会がさらに進むとこの映画のようになります

たとえば主人公たちが強制連行されるトラックでオシッコを漏らしたおばさんが印象的(トイレ休憩をしてくれないせいで漏らしてしまう)

この親切そうなおばさんは、義理の息子が南朝鮮(韓国)のラジオ放送を聴いたというだけの理由で孫娘も含む連帯責任で強制連行となったのであります(つまり本人はなにも悪いことしてない)

この連帯責任という考え方は江戸時代にもありましたし、ゲシュタポもよく使っていましたが、指導者にとってすごく都合が良いシステム

なぜならお互いがお互いを監視しあってくれるし、なにかあれば一網打尽にできる(連行する人数を増やせる)

連行する人数が多ければそれだけ熱心な党支持者として上に上がれるわけですね

この連帯責任って、現代日本でも根強く残っていると思います

例えば飲食店へのコロナ協力金の件がそう

日本政府が実態をよく調べないまま適当に協力金のシステムを決めてしまったため、もらえるところともらえないところなど、かなり不公平な配り方になってますね(そもそも時短営業が条件のため、夜遅くまで営業していないお店などは協力金がもらえなかった)

さらには従業員に対する雇用調整助成金も雇用主が協力的でないため従業員が貰えなかったり、会社がネコババすることもできてしまった

他にも事業規模と合ってないがために小さな店舗では多すぎるくらいの協力金に対して、大きな店舗では逆に少なすぎる金額となってしまったり、感染対策の仕方も厳重なところもあればいい加減なところもあるという結果になった

それでも一律「飲食店」として多くの国民は「飲食店ばかり協力金がもらえてズルい」という感情を形成させてしまった

大多数の国民にはごく僅かなお金と布マスクしかもらえなかったため、どうしても不公平感が出てしまったんです

そういう不公平感を抱いている国民にとっては、協力金がもらえなかった飲食店があったとしても一律に「飲食店ズルイ」という目で見てしまう

この映画のなんの罪もないおばさんもまさに協力金がもらえなかった飲食店と同じ

連帯責任というのは不公平感を生み出すことになるのです

現代日本は豊かな社会だと思いがちですが、果たしてそうでしょうか

強制収容所でクタクタになるまで働き、わずかな食料しかもらえず希望も見出せない状況は日本のワーキングプアに通じるものがあるはず

皇族の結婚問題でヤフコメが閉鎖したりなど、日本もだんだんと監視社会&社会主義及び共産主義に向かっているように思います(ベーシックインカムを導入する議論もありますし)

何十年も納めた国民年金よりも生活保護費の方がもらえる額が多い、という矛盾のある現代日本は、本当に北朝鮮(などの社会主義及び共産主義の国)とは違うと言い切れるのでしょうか?

なかなかそうも言い切れなくなってきているというのを、この映画を観た人に訴えかけてきます

食料自給率の低い日本という国で、なにかあれば飢えにつながるという危機感を持たないまま、憲法改正して軍隊を持つ議論をするのは、国民の食糧事情に目を向けずに核兵器を開発する北朝鮮にどこか通じている気がしてくる映画です

「自分だけは大丈夫」という逃げ場を奪うように、このトゥルーノースという映画はうまく作ってあります

それは主人公の父親が党に表彰されて新聞に載ったほどの人物だという設定(家の中の写真でもこの父親がいい身分だとわかる。「パチンコ」と書かれた看板の前で撮った写真もあるので日本に縁があることもうかがえる)

それでも政府にとって邪魔だと判断された場合は即切り捨てられるという無情(母親が日本製の腕時計を徴収係の親玉に渡す賄賂も意味がないっていうシーンもある。ただポケットに入れられておしまい)

ようするにどんなに優秀でもお金があっても(賄賂が無駄に終わるシーン)政府の胸先三寸で未来が決まってしまう社会ということです

このトゥルーノースという映画では北朝鮮が舞台ですが、特高やゲシュタポに代表されるように、「いつの時代のどこの国でも起こりうること」というのがポイント

ワーキングプアが大勢いる日本で、貧しい人々を自己責任だと見捨て、自分だけは努力をしてお金を稼いでいるから安心と思ったら大間違い(平壌の弁護士も主人公たちと一緒に強制収容所に送られている)

ナチスがユダヤ人を強制収容所に送ったように、いつ政府の標的になるかわからない国として現代日本も当てはまる可能性がある(金融財産にも追課税しようという議論がありますので投資をしているから安心とは言えなくなってきた)

このトゥルーノースという映画の北朝鮮はそれを分かりやすく視覚で訴えてくる

登場人物が全員安っぽいCGなのが最もそれを表している(もちろん予算の関係もあるのは承知しているつもり)

全員どこか生身の人間ぽくなくて、どこか人形みたいに見える

これには二つ意味があると思う

一つ目はこの悲惨な現場を実写でやったらあまりにも酷い映像になるため、鑑賞がとても辛いものになる

だから、わざと作りものっぽい雰囲気にすることでどんなに悲惨なシーンでも、ギリギリ観ていられるようにできている

そして二つ目は(こっちが本命だと思う)全員が人形のように魂を持っていないという表現にしたかったんだと思う

この北朝鮮で暮らしている主人公たちもまさか自分が強制収容所に送られるとは思っていなかった(父親は土壇場で書類をまとめてなんとかなると思っていたみたい。もっとも、家族[these families]を助けたいという思いから上司である局長にかけあった結果とも考えられるが、自分や家族が強制収容所に行くとは想像もしなかった)

※日本語の字幕では「彼ら」と訳しているので誰か別の人たちのために行動したように受け取れますが、英語では「these families」と言ってるので、自分の家族を含めた日本から朝鮮にやってきた人たちを言ってるんだと思います(theseは話者に近い複数の人を指す。つまり自分たち日本に縁がある家族のこと)

みんなそこまで深く、いま自分が置かれている環境を考えていないということです(検閲されているのに日本に手紙を出してしまうくらいですから)

とりあえず生活できているし(主人公たちも映画の冒頭では普通に生活している)特に世の中のことや政治のことなんか「よくわかんないし、無関心でいいや」と思っている節がある

そしてそれは主人公の友達が窓から下を覗いて、主人公が強制収容所行きのトラックに乗せられるのを見つめるシーンに表現されている(母親がカーテンをひくシーン)

強制収容所に連れていかれるくらいのことをしたに違いない、あんな人たちと関わっちゃいけない、自分には関係ないことだと見て見ぬフリをするシーンなのです(朝の挨拶の時も目を逸らして無視する)

これは北朝鮮に限ったことではない。ワーキングプアなど、貧しい人たちを見て見ぬフリをして世の中に関心を持たない現代日本人にも当てはまると思う

世の中の矛盾や理不尽に気付かず、政治家の横暴に見ないフリをして「自分は関係ない」と思って生きていく、それはつまり魂のないただの人形と同じなのである

人形は操られて動いている。では操っているのはだれ?つまり国の指導者であります

国民がただの操り人形でいる方が国の指導者としてはやりやすいのです(ワクチンの副反応に怯えつつ、今や日本はG7[主要7ヵ国]トップの摂取率[2回接種完了]となった。つまり日本国民は政府の言うことを信じやすい)

自分の頭で考えず(政府の言うことを疑わず)、現状を変えようとも考えず(投票に行かない)、落ちぶれる人々は自分には関係ないと知らんぷりして(格差を受け入れ)与えられた環境でただ黙って生きていく(反対デモやストライキとは無縁)な現代日本人とこのトゥルーノースという映画に出てくる安っぽい人形みたいなCGの登場人物とは一致するわけです

マスクをつけての生活も長引き、人との会話や触れ合いもなく、税金(自国通貨建てなんだから財政破綻なんてしないのに)や物価の値上げを仕方ないと受け入れて生活している現代日本人の顔は、まさにこの映画に出てくる人々と同じように見えます

新自由主義の資本経済においては、突き詰めると共産主義や社会主義の国となんら変わらなくなり、極一部の特権階級を除いて、すべからく国民が貧しくなるという恐怖をこの映画では安っぽいCGにすることで間接的に訴えているんだと思います

曲解しすぎでしょうか?

いいえ、そうは思いません。なぜならこの映画、一部を除いて全部英語なんですよ。北朝鮮を舞台にしているのに言語が英語っていう時点で皮肉ってるんだと思います。しかもオール英語じゃなくて少しだけハングル語を使うので意図的に英語音声にしてる気がしますね

北朝鮮を批判する反共・反社映画に見せかけて実は超資本主義社会である西側諸国(特にアメリカ)そのものまでも批判しているように受け取れるんです(親のお金の多寡で子供の将来が決まる格差社会はある意味で社会主義及び共産主義的な階級社会と言えますよね。生まれながらにして将来が決まってしまうので。極一部の富裕層か、あるいは大多数の貧乏人か)

ではこのトゥルーノースという映画では日本という国がどういう扱いになっているのでしょうか

それがわかるシーンは大体24分が経過した頃、おぼっちゃまたちが主人公の作業中に通りがかるシーンです

主人公は太っちょのおぼっちゃまから「お前は日本から来たって父さんから聞いたぞ」と言われます

主人公が「僕は平壌生まれの朝鮮人です」と弁明するも信じてもらえず「半分豚の日本人野郎」と罵られるのであります

そして石を投げられてもやり返せず、跪いて豚の鳴き真似をする主人公(このシーンだけでなく、土下座がいっぱい出てくる映画でもある。そういえば土下座する総理大臣の石像を作ってなにかと謝罪を要求してきている国があったっけ。日本は朝鮮半島では嫌われ者なんですね)

ちなみに、現在、北朝鮮の最高指導者は金正恩ですが、彼の母親は高容姫といって日本の大阪で生まれた女性です(高容姫の両親は在日朝鮮人ですが、母親の方が実は日本人だったという説があります。もしそうだとすると北朝鮮の最高指導者には日本人の血が入っていることになりますね。母親の生まれ故郷に向けてミサイルをぶち込む息子)

日本人は「豚」というくらい北朝鮮では嫌われているのを改めて実感するシーン(ミサイル[石]を撃たれても遺憾砲しか飛ばせない日本を皮肉ってるように見えます)

そしてそれを周りにいる子どもたち(主人公と同じ境遇の強制労働中の子どもたち)がおぼっちゃまたちと同じように笑ってるんですよね

自分たちだって同じような最底辺の立場のはずなのに、その自分よりも下の存在を見つけて笑うっていうのは現代日本にも通じるものがあるなあと思います(自分より貧乏な人を見てあいつよりはまだマシだという精神)

実はこの強制収容所はもしかしたら釈放される「可能性」があるという希望を与えているんです(劇中では描写がないように思いますが)この強制収容所(革命化区域といいます)より酷いのが完全統制区域といって終身刑と同義で死ぬまで働かされる過酷な環境です

下だと思った環境のさらに下をいく劣悪な環境を用意する事で「自分はまだマシ」だと思わせて最悪に転落するのだけは避けたいという思いを強く植え付けて、反抗する気力を削ぐんです(江戸時代の農民の下に穢多・非人を作ったのに似てます。ちなみに非人は足洗い[旧身分復帰]が認められていました)

同じ境遇にいるもの同士が力を合わせるんじゃなくて、告発大会(告発したものには食べ物が与えられる)や自分より下のものを見て笑うように指導者(このシーンではおぼっちゃま)が仕向けてるんですよね

これこそが世の中が悪くなり、現状がますます酷くなる根本原因だと思います

お互いが助け合ったり慈しみ合う心を奪うように、指導者は政策を立てるわけです(わざと不公平なバラマキをしたりとか)

ちなみにこの映画の強制収容所では女性が妊娠すると処刑されます

そしてその妊娠の原因が保衛員(監視兵)によるものだったとしても処刑されます(つまりレイプされて妊娠した場合でも処刑されてしまう)

女の人の地位なんて影も形もありません

強制収容所の所長によると「管理所での仕事もせずにのうのうと子どもを身籠った」から殺されるんです(たとえ仕事で実績を上げている女性でも容赦しない。中国で政府高官と関係を持ったテニス選手が行方不明になる騒ぎがありましたね。女性は勉強ができてもスポーツができても性的に搾取されて、最後は用済みにされるという闇)

子どもを身籠った女性を殺していくっていうのは少子化のメタファーに見えました(女性は妊娠出産をすると仕事を辞めざるを得なかったりする)

女性が安心して子どもを産めない社会はこの強制収容所と同じなんですよね

では現代日本では女性が安心して子どもを産める社会でしょうか?

妊娠した女性と一緒に処刑されるのは脱獄を企てた人物(中国まで逃げたけどそこで捕まった)で散々拷問された後、飽きたから処刑されます

強制収容所の姿が現代日本の身近な問題なんだと視覚で実感するように作られているのがすごい(主人公たちの寝泊まりする小さな部屋はまるでネットカフェみたいな狭さ)

この主人公の母親は教養のある人物として描かれています

それがわかるのは、この狭い(約四畳くらいの)部屋の窓辺で弦楽器(二胡)をもの悲しそうに弾くシーンでわかります

この教養を身につけるためにはある程度裕福でなければならないわけで、やはりこの主人公の母親も裕福な女性として描かれているわけです(一緒に連れてこられた弁護士といい、学があったり教養があったりお金持ちであっても強制収容所に連れてこられてしまう。むしろそういう目立つ人の方が狙われやすい側面もある)

主人公の父親は先に連行されてしまったらしく、一向に行方がわからないという描写も怖いですね(実は映画の後半で父親がどこに連れて行かれたのかが判明します。そのため、二回目の鑑賞時には涙が出てくる)

この主人公の父親は「背広のおじさん達」がまた家に訪ねてきたと娘から聞き、危機感を覚えて主人公である息子に「もっと勉強をがんばれ」と言うのです

この勉強をがんばれと子どもに言う親が、今の日本でも多いような気がします

でも結果としては勉強をがんばるだけじゃダメだったんですよね

この勉強というのが単純に学力(=高給取りになる手段)を身につけるためのものになっているから、という警告になっている気がします

日本でも一億総中流社会を目指して受験戦争という言葉が流行しました

ですが、いい大学に入っていい会社に入れば一生安泰という社会は、終身雇用制度の崩壊とともに幻想となってしまったわけです

いい大学や会社に入ったとしても、リーマンショックやコロナ禍などの予測不能な社会混乱で簡単に生活基盤が危うくなるのは、北朝鮮の主人公たち家族とも通じるものがあると思います(突然、今の生活が崩壊する)

主人公の家族を徴収する偉そうなオッサンは強制収容所に連行した後、そこの所長に「本日は64名を連行いたしました」と報告します

これっていわゆる成果主義ですよね

終身雇用が崩壊した後、日本では成果主義が横行しています

成果主義とは結果(数字)がすべてという考え方です

突き詰めていくとなんの罪もない主人公家族を連行するのは数字稼ぎ(成果稼ぎ)なんです

これでもうお分かりかと思いますが、成果主義と連帯責任というのはとても相性が良くて、指導者が好むやり方なんですね

成果主義はいかにも資本主義社会において正義かのように思われがち(怠け者を排除する)ですが、突き詰めると共産主義や社会主義になるということです

※社会主義では個人が資本を持つことはできません。国が管理します。共産主義ではそもそも国が管理せずみんなで管理するというお題目ですが、実際は誰かが資本を管理するわけですから結局共産主義とは理想であって最終的には社会主義にいきつくと思います。なお、教科書的には社会主義とは共産主義へ向かう過程の段階であると習ったと思います(豆知識終わり)

この所詮は御為ごかし(表面は相手のためにするように見せかけて、実際には自分の利益をはかること)はこの映画の冒頭ですでにネタバラシされています

それは金日成の言葉として紹介される「人民が全てを決定する。主体思想に導かれれば彼らに不可能はない」という文章です

金日成によると主体思想は「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という信念を基礎としているそうです。(なお、この主体思想を体系化した黄長燁という金日成の側近は韓国に亡命しました)

北朝鮮と我々日本人は呼んでいますが、正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」です(北朝鮮が民主主義だって思いますか?ちなみに世界遺産も2つあるんですよ。なお韓国の正式名称は大韓民国)

現代日本に生きる我々日本人はこの北朝鮮の将軍の大嘘をすでに知っているわけですから、とんでもない御為ごかしをしているわけです

では日本はどうでしょうか?

先程、資本主義も突き詰めると社会主義につながると書きましたが、日本は資本主義をより一層強く突き進めようとしているようです

それは新一万円札の肖像画が福沢諭吉から渋沢栄一に変更になったことから明らかです

渋沢栄一は日本で初の銀行を設立した人物です。それに対して、旧一万円札の福沢諭吉は「人の上に人を作らず人の下に人を作らず」と言って学び舎(大学)を作った人物です

どちらがより資本主義向けの人物かは明らかだと思います(決して慶應びいきというわけではありませんよ)

『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』というドラマがアメリカで流行したように、どうも欧米人はこの社会主義になるという恐怖感(危機感)をなんとなく肌感覚でわかっているように感じます(『ハンガー・ゲーム』も流行った)

資本主義経済のトップを走る米国で危機感を感じる国民がいるくらいですから(だからドラマが流行った)我々日本人も敏感に感じ取る必要があると思います(米国株に投資している日本人は多いんじゃないでしょうか)

ここまで書いても、いまだにピンとこない人もいるかもしれないのでさらに言うと、資本主義は個人が資本を所有できるのが社会主義と大きく違うところです

ですが、資本を持つことが認められていたとしても、人々が貧しくなり、資本を持つことができなくなれば(持ちたくても持てない)それは資本主義を掲げているけれど事実上の社会主義と言えるのではないでしょうか

働くよりも生活保護を受けている方が「文化的で最低限度の生活」がおくれる。国民が年金を信用できず、総理大臣が「いざとなったら生活保護がある」と言って自助を促す国は果たして資本主義なんでしょうか(生活保護を受ける国民が多数になったらそのあとはどうするんでしょうか。強制収容所で働かせるのかな)

ベーシックインカムの導入が議論され、年金への不信感から国民が投資に夢中になり(なるように政府が不安感を植え付け)株価が下落しないように日銀が買い支えて市場を操作している経済は果たして本当の意味で資本主義経済なんでしょうか

政治家が税金を私物のように考え適当なシステムで不公平にバラマキをして、減税をせずに増税ばかりして国民の暮らしを厳しくして、国民が資本を持てないように誘導する国

日本は実はすでに緩やかに社会主義に向かっているような気がします

そういう危機感をこのトゥルーノースという映画は熱く訴えかけてきます

諸外国に比べて20年以上経済成長できず、大卒初任給が上がらない日本は周辺国と比べてこれからもっと貧しくなっていくでしょう(すでに中国にGDPで抜かされました。それなのに緊縮財政を続けて増税を続けている日本)

鑑賞が進むにつれて、このトゥルーノースで描かれている北朝鮮の様子が日本の未来の姿かもしれないと思えてきて、背筋がゾクゾクとしてきます

決して海の向こうの関係ない国の、かわいそうな家族のお話ではないんですね

自分の住んでいる国と繋がっている世界のお話として鑑賞すると、このトゥルーノースという映画が描く強制収容所の様子が、決して大げさでないことが伝わってきます

処刑のシーンをキッカケに新しい登場人物が出てきてから、この映画はエンターテイメント性が増していくんです

この新しい登場人物は、母親を目の前で処刑された男の子(ということは母親は監視兵に・・・)

それを不憫に思った主人公の母親が自分たちの部屋(小屋)に連れてきてあげるんです(ただでさえ狭い部屋なのに)

主人公の妹は大切にしていたぬいぐるみをこの男の子にあげます

母親は自分たちの食べ物も満足にない中、スープを男の子にあげます

主人公はこの頃にはもう心が荒んでいて(ある意味で適応力が高いとも言える)この男の子にはなにもあげません

むしろ「ぼくの(スープ)とっておいてよ」とキツく接します

そして翌日、この男の子と主人公は自分たちが働いている炭鉱でペラグラにかかった子どもを見ます

※ペラグラとはナイアシン(ビタミンB3)欠乏症のこと。北朝鮮ではトウモロコシしか食べられない多くの人々がペラグラに罹患している。赤い発疹が顔に出て、症状が進むと幻覚を見たりして最悪死亡する

当然大人たちはこのペラグラにかかった子どもをどこかに連れて(捨てに)いきます

そして主人公は夜、なにか食べ物がないかと木々の間を探し歩いていると、新しい同居人となった男の子もいるんです

男の子も食べ物を探していて、冬眠している蛙(カエル)を見つけます

そしてこのやっと見つけた蛙(かなり小さい)を主人公にあげるんですね

これをキッカケに友情が芽生えた二人は次の日から、あのいじわるなおぼっちゃま達に向かって土下座しながら「腹ペコな日本の豚でございます」と言って食べ物をねだるんです

二人で豚の泣き真似をしながら、おぼっちゃま達から食べ物をもらってそれで命を繋いでいくんです

でも、ここでは悲壮な感じは一切ありません

むしろ、利用できるものはなんでも利用して生き抜いてやろうという強い意思を感じさせます

なぜ悲壮な感じがしないかというと、それは仲間ができたからなんですね

主人公はそれまで一緒に戦ってくれる人がだれもいなかったんです(母親と妹はそれぞれ別の場所で働いている)新しい同居人となったこの男の子と友情を育んだことによって、一緒に戦う仲間(相棒)ができたんです

どんなに悲惨で絶望的な状況で惨めでも、仲間がいれば戦えるという希望のシーンとなっています

この映画では一つの希望として、あるいは現状への一つの打開策として、結束の大切さを説いているように思います

それは「聞く力」と言いながら減税しないどこかの総理大臣のような表面的理解ではなく、実感を伴った理解者の結束が状況を打開する唯一の手段であると主張しています

この男の子は実は3年前にお父さんも亡くしていて天涯孤独なんですね

そして目の前で母親も処刑されてしまい(しかも保衛員にレイプされて妊娠したから)まさに絶望を味わったんです

それを主人公の母親が手を差し伸べて、さらに妹が手を差し伸べてくれて立ち直り、今度は蛙を主人公にプレゼントして主人公も受け入れる(仲間になる)

より悲惨な状況である男の子が、母親も妹もいるくせにスネている主人公をやっかむのではなくて、蛙をプレゼントするというのがポイントです

弱いもの同士の中でさらに上下の階級を作り、不幸自慢大会をして努力が足りないと相手を見下して切り捨てるのではなく、お互いに一致団結をする

結束するしかこの理不尽な世の中で生き残る手段はなく、「仲間と戦うことが唯一の抵抗手段である」と、このトゥルーノースという映画ではうったえているわけです

蛙をもらった主人公は代わりに食べ物を手に入れる手段として、男の子に豚の泣き真似をすることを教えたのでしょう(劇中に描写はないけど)

1人では惨めすぎてできない行為でも、仲間がいれば孤独や引け目を感じずにできるわけです

不公平なバラマキや税金の使い方で格差が広がり、とかく我々日本人は分断されがちです

コロナ禍ではワクチン接種者とワクチン未接種者で国民が分断されました

指導者の誘導に乗せられていてはますます分断は進むばかりです(投票率が低いのも分断が原因と思います)

手を差し伸べて、お互いに助け合うようにするしか、現状を変えられないという強いメッセージを感じました

そして物語は一気に9年後に進みます

ここでのセリフも印象的です

「プライドが命取りになる」

国(政府)を信じ、自分(の能力や努力)を信じている人ほどプライドが高く、理不尽な状況に耐えられないというセリフです

さらにその後の土石流のシーンで所長の「お前らは皆、どいつもこいつも使い捨てなんだよ」というセリフも印象的です

「大勢埋まっているから助けましょう」と言った人は銃で撃たれて死んじゃうし(助けようとするやつは目障り。なぜならだれかを助けることは団結につながるから)

そしてこの強制収容所で絶大な権力を持っている所長でさえも、伐採ノルマを平壌から課せられているただの歯車の一つにすぎないということです

上には上がいて、自分は階級が上だと思っていても、さらに上がいるんですね

成果主義は目標(ノルマ)に追われることになるわけで、無理なノルマを達成するためには下の者をこき使うしかないわけです

この構造って、大企業が下請けに無茶な値段で請け負わせて自分たちだけ利益を上げるやり方と同じですよね(下請けに安く仕事をさせて自分たちは利益を確保する。そのせいで大企業がいくら利益を上げられても、下請けは儲からない。トリクルダウンなんて嘘だった)

日本の税金の使い方でよく中抜きが問題になっていますが(電通はオリンピック組織委員会から165億円もらっておきながら開会式予算は10億円だった。残りの155億円はどこへ?)

結局、富(資本)が上の方で回っているだけで末端が苦労しているのは北朝鮮も日本も同じです

日本は本当に資本主義の国なんでしょうか。もはや社会主義国家になってませんかね

経済を回すために「お金のある人に使って貰えばいい」という考えをする人がいますが、それって格差を認めることになりますよね(旅行に行く費用なんてなくて日々の暮らしで精一杯の人が多いのにGOTOキャンペーンに税金を使った政府。人流抑制したのに旅行推奨とはどういうこと?)

「お金のある人に使って貰えばいい」という考え方はこういう使い捨て労働を生み出す構造になるってことです(材木を必要としている平壌ではこの強制収容所の悲惨さはわからない。材木[お金や資源]を使える人が使えば経済が回るとは思えない。結局一部の人が得するだけ。平壌でいくら材木を使っても強制収容所の過酷な環境には変わりがない。むしろノルマがキツくなって状況は悪化する)

資本主義だから格差は仕方ないと考えていると、いつの間にか北朝鮮のような社会主義になるということをこの映画では訴えてきます(既得権益を貪る側に入れないなら貧民になるのは資本主義も社会主義も同じってことです)

「資本主義の方が平等なチャンスがある」というのも幻想で、子どもは結局親の経済力である程度将来(既得権益を受ける側になるかどうか)が決まってしまうので、公平さもありません(日本の政治家には二世議員が多い)

新しい産業や新しい技術開発などに挑戦する土俵が十分に整っていない日本の環境は、まさに社会主義国家のように見えてきます(いまだに国産ワクチンが打てない状況)

主人公の妹は9年経っても優しいことに変わりがなく、お年寄りに自分の食べ物をあげてしまう始末(さすがに主人公に止められています。「優しくしてたら死ぬぞ」と)

おそらく主人公が色々と食べ物を調達してあげているから妹は人に優しくしていても、なんとか生き延びてこれたんだなあ、とわかるシーンになっています(母親も優しいので人に食べ物をあげてしまう)

主人公はそんな状況に疑問を抱いているらしく「なぜいつも助けてばかりなのさ?」と尋ねます

母親は「人助けに理由がいる?」と言うくらい優しい人物です(これくらい優しい人だから主人公は相棒となる男の子と出会えたわけなんですがね)

主人公は反論します

「老いぼれじゃないか。もうじき死ぬよ」(このセリフが後の伏線になっている)

そしてついに妹が病に倒れます。そうペラグラです

しかたなく主人公はウサギを盗んだ人物を密告して、食べ物を調達します

このウサギを盗んだ人物も、実は娘が病気で(ペラグラ。妹と同じ)仕方なく盗んだのですが、主人公によって処罰されることになります

お互いに助け合って結束するしか理不尽に抵抗する手段はないというメッセージを訴えたあとで、「それは決して楽なことではない」と現実を突きつけるのです

過酷すぎる状況で今日を生きるのが精一杯な環境では、人を助けることは容易ではありません

そのため、なかなか現状を打開できずに次第に人間性が(主人公は適応力が高い)残忍になっていくしかない。この描写がうまい

主人公はこの密告を境に囚人達を監視する側へと立場が変わります(土石流で監視グループのリーダーの息子を掘り出したというのもキッカケではありますが)

少しでもいい暮らしをするために適応力が高い人は体制側につくという描写です(そのせいでなかなか現体制が崩されることはないという皮肉になっている。冷酷な人が体制側の人間になっていくので、末端の者を優しくはしない。優しい人は死んでいく)

この悪循環がある限り、理不尽な世の中のシステムは変わっていかないわけです(どうして世の中が良くならないのか?の答えです)

9年前の子どもの頃はそれでもまだ純粋だったけれど、大人になっていくにつれて世の中の大人のズルさを学習してしまうという描写です(頭が良い人ほどズルくなる)

母親はそんな主人公の変わりように無言で抗議します(主人公のおかげでたくさんご飯を食べられるのに食べない)

蛇や蛙などもたくさん捕まえてきて棚にいっぱい備蓄する主人公

「すぐ腐るわ。みんなにも分けないと。全部食べきれないよ」と妹が言いますが、「違うね。まだ足りない。もっと欲しい」と主人公は食べ物を分ける気はサラサラありません

これお金と一緒ですよね

いくらあっても不安でもっともっとと欲しくなる

足りなくて苦労した経験がある人ほどもっともっとと欲しくなる

日本でも重税への恐怖と年金への不安から一種の強迫観念のように国民が貯金をしています(日本政府はなんとかこの貯金を使わせたくてあの手この手で投資をうながしていますね)

もっともっとと貯蓄したくなるのは北朝鮮も日本も同じです

日本は本当に資本主義の国なんでしょうか。もはや社会主義国家になってませんかね(2回目)

厳しい環境に喘ぎ、貧しく死んでいく人が大勢いる中で貯蓄している人がいたら当然狙われます(ましてや密告のせいで娘と夫を失った女性は恨みが深い)

主人公は命を狙われるんです(そういえば日本も電車内で通り魔の犯行が増えたり、治安がおかしくなっている気がします)

格差が広がり、財産もなく失うものがない人(または強い孤独感や劣等感を感じる人)が増えれば増えるほど治安が悪くなるのは北朝鮮も日本も同じですね

日本は本当に資本主義の国なんでしょうか。もはや社会主義国家になってませんかね(3回目)

しかし、主人公は監視グループの一員ですし、監視グループの連中はいつも複数で行動していて、食べ物も満足に食べているのでなかなか犯行のチャンスが掴めないわけです

ではどうするか?

弱そうな人を狙うんです(この辺も通り魔に通じるものがある)

母親は命をかけて主人公を正しい道へと導こうとします

自分を刺した者を赦すのです

そして最後の力を振り絞って主人公に教えを施します

「誰が正しいとか誰が間違っているかが重要じゃないの。誰になりたいか自分に問いなさい」

ここから主人公がまっとうな人物になってこの強制収容所を変えていく、と思ったら大間違い(『ショーシャンクの空に』とは違う)

このトゥルーノースという映画がすごいのは一筋縄ではいかないところ

なんと主人公は母親が死んだ後、狂ってしまうのです

監視兵から打ったり蹴ったりされてもヘラヘラして、部屋ではよだれを垂らしながらボーッとしているんですよ(うーんこの映画は名作だと思う)

当然監視グループからは追い出されてしまい、ただの囚人として生きていくことになります

この主人公が狂っている状態から真人間に戻るのを助けたのは妹(割とすぐに真人間に戻っているので、本当に狂っていたのではなくて、自暴自棄になっていただけだと思う)

大事なシーンとして、主人公が足を桶で洗う描写が出てきます。ここで純粋な心をまた取り戻したということ。足を洗う=文字通り汚れた心が清らかになったということ。桶の水が泥で汚れることからわかる。そして妹の足と同じようにキレイになっている

妹は、なんのために生きているのかわからない主人公に、死にかけている老人の世話を一緒にやるように誘います

最初は「放っておいてくれ」と言っていた老人(かつて妹が食べ物をあげようとして主人公が止めたあのお年寄り)に対して最初は見ているだけだった主人公

やがて妹の介護の様子を見ながら少しずつ手伝うようになり、やがては老人の身体を拭いてあげるようになる

そして主人公は妹と夜空を見上げる

「星を見て。明日は快晴ね」と妹が言う

亡くなった母親が星となって瞬いていて、それを見上げるということです。主人公が優しさを取り戻したことを、妹は母親に報告しているのであります

妹が主人公と違って自暴自棄にならなかったのは、いつも夜空で母親が星となって見守ってくれていると信じているから、孤独を感じなかったわけですね

母親がいつも見守っているので、恥じない生き方をしようと心がけているんです

星がキレイに瞬いていることから、主人公が真人間に戻り優しさを取り戻したことを母親も喜んでいて、明日が快晴になるというのは主人公の未来に明るい展望が開けたという暗示になっているわけですね

主人公と妹はここで笑いあいます(おそらく主人公は母親が亡くなってからここで初めて笑った)

ここから主人公の生きる目的のような、ぼんやりとだけどもやるべき事のようなものができます

もうすぐ死ぬ人へ優しく寄り添うことです

「老いぼれじゃないか。もうじき死ぬよ」と言って冷たかった主人公とは雲泥の差です

そしてある時、主人公は日本から拉致されたという老婆と出会います

母親の優しさが相棒の男の子と主人公を結びつけ、そしてここでもまた弱っている人に寄り添っていた母親の影響で、主人公は拉致被害者と接点ができるわけです

このトゥルーノースという映画は母親の優しさが主人公を導いていくという、心が温かくなる要素があるんです(映像や内容がつらいぶん、この優しさがグッとくる、いい対比になっています)

この拉致被害者の老婆のために、妹は『赤とんぼ』を歌います。そうです、♪夕焼け小焼けの赤とんぼ〜♪のあの歌です(ね、この映画やっぱり日本を意識してるでしょ)

他にも元獣医だった人にも出会います

この獣医だった老人は朝鮮戦争を経験しているようなのですが、この時のセリフが印象的

「国は貧しかった。でも幸せだった。みんなで協力したんだ。誇れる祖国を建設しようと。あの頃は最高指導者でなく、人民の絆が何より尊かった」

ここでも改めて人々の結束が大事だとこの映画では強調してきます

そしてこのあと主人公は、人と人の絆を育むためにはどうすればいいのかを考えます

そして働いている坑道(炭鉱)で歌を歌いながら作業をすることを提案するのです(音楽が人と人の絆を強め、結束させる)

ここから強制収容所内でギスギスしていた雰囲気が明るく変わっていきます

やはり音楽には人と人を結びつける力があるんだなあと思えるシーンになっています

このままみんなが笑顔を取り戻し、暗い強制収容所で主人公が自分の生きる意味を見つけてハッピーエンド・・・と思ったら大間違いです(ほんとハリウッド映画のフラグをポキポキ折ってくる、アンチハリウッド映画ですね)

歌っていたのも束の間、なんと妹が監視兵にある夜、強制的に性交渉をされてしまいます

この時の翻訳がまた上手い。英語ではグッドイブニングと挨拶しているのですが、日本語では「美しい夜だね」と翻訳しています

英語では「こんばんは。美しい夜だ。そう思うでしょ?」という意味のセリフなんですが、あえて「美しい夜だね。そう思うだろ?」と日本語では翻訳しています(より一方的に監視兵が熱情を押しつけているという心情がわかるようになっている。美しい夜だねと最初に話しかけることで、一種の愛の告白の要素も含まれている)

「こんばんは。美しい夜だ」の後に性交渉になると、ムラムラしていて女なら誰でもよくて手近にいた妹に手を出した的なニュアンスになってしまうけど、「美しい夜だね(好きだよ)そう思うだろ?(お前も俺のことが好きだろ?)」という、妹に一途な気持ちで語りかけて、それが自分の勘違いだったと知って可愛さ余って憎さ百倍だったんだろうなあ、と余韻で想像できるようになっています

この「美しい夜だね」というセリフで恋愛感情の告白という表現に、どことなく日本的な風情を感じてしまうのは僕だけでしょうか?(夏目漱石のアイラブユーの翻訳を意識してる気がして、やっぱりこのトゥルーノースという映画は日本を意識して作られている気がします)

そして主人公の相棒が復讐をしようとして捕まり、地下留置所に入れられるという場面転換の巧みさが素晴らしい(過酷な状況に思えてもさらに過酷な環境があるという。歌を歌ってハッピーエンドになるかと思いきや、その期待をボキっと折ってくる。ここにこの映画の主張が反映されている気がします。つまりディズニー映画みたいなみんなで歌ってハッピーエンドなんか現実世界では起こり得ないという冷酷な目線)

主人公の相棒はここでかなり悲惨な拷問を受けることになります(『ゼロ・ダーク・サーティ』なんかの拷問シーンとは大違い)短いし、グロいシーンはないけど、真っ赤な鉄棒が怖いです

妹は長くて綺麗な髪をバッサリと切ります

これで終わらないのがこの映画のすごいところ

妹はちょいちょい吐き気を覚えて作業中に何度も吐きに行くことになります(飢えているから固形の吐瀉物はなくて、ほぼ液体のみなのも悲しい)

ここで思い出してみてください

かつて強制収容所で保衛員(監視兵)にレイプされた女性がどうなったか(主人公の相棒は幼少期のそのトラウマがあるから逆上して襲った。優しくしてくれた妹がいわば母親にダブって見えたんだと思う)

このままではまずい

ではどうするか?

主人公はなんとか脱走を計画するようになります(この脱走の計画を練るシーンもなかなか凝っている。そもそも仲間と相談するのも命懸けなので、グループで集まるのにも気を使うあたりが緊張感があって面白い)

この時の弁護士(主人公たちと共に強制収容所に送られてきた平壌の弁護士)のセリフが印象的

「もし捕まったら抵抗するな。持ち物を全て差し出せ。賄賂だけがこの国で物事を成し遂げる唯一の方法だ」

はい、賄賂が横行しているのは忖度ばかりの現代日本でも同じですね

もう法律でどうにかなるとかいうレベルではないんですよ

一旦こういう社会になってしまったら法律(正義)は無意味なんだ、と訴えてきます(日本はそもそも法律で個人の私権を奪うように憲法を改正したがる人もいるくらいですが、果たして大丈夫でしょうかね)

脱走が正しいことなのか悩む主人公に対して、説得するオッサンもいいキャラしてる

「おじさんが行け(脱出すれ)ばいいのに」と主人公が反論すると「妻と子供がいる。残しては行けない。俺だけ逃げたら彼らが処罰される」と話します(脱北すると残された家族は悲惨な目にあう)

過酷な状況で頼れるのは家族しかいない。家族で必死に支え合っているのに、その過酷な状況から脱出するには唯一の心の拠り所である家族を見捨てなければならないという無情(あゝ無情)

「僕らに権利があるのか」と踏ん切りがつかない主人公に対して「自由を思い切り楽しめ。そして、ここで起きてる事を世界に伝えろ」と諭すのです

若者が自由を楽しめるように大人が頑張るという図式(今の日本は若者はけしからんという風潮で若者に自由を与えていませんね。とくにコロナ禍で若者には多大な負担をかけてる。それなのに大人は知らんぷり。これでは状況は良くならないという映画の主張に感じました)

世の中の今の状況を変えるには次世代を担う若者を解放して自由にして、若者に期待をするしかないんです(それなのに日本の政治を牛耳っているのは年寄りばかりという真逆な状況。おまけに日本の若者は選挙[政治]にも興味なさそうですね)

そうこうしているうちに相棒が釈放されます

なんと相棒は地下留置所で主人公の父親に会っていたのでした

地下留置所では個室はなくて、狭い部屋にみんなが入れられています(つまり拷問の後、床に横になって休むスペースがない。硬い床に座ったまま過ごさなければならない)

そして1人ずつ連れて行かれて、拷問されている者の悲鳴を聞かせるという心理攻撃

いい加減気が狂いそうになって囚人の1人が「何か方法があるはずだ。自殺でもいい。死なせてくれ」と嘆きます(死ぬ方法があるはずだから考えてくれということ。それくらい毎日辛い)

すると別の囚人が「もし自殺したらお前の家族が罰せられる。わかってるだろ?」と言います

そう、地下留置所の囚人は残された家族のために自殺することもできず、ただひたすら拷問に耐え続けなければならないのです(家族想いの人こそ家族を守るために逆らったり、策を考えたりして気骨のある人ほど地下留置所送りになる。そして気骨があって根性がある人ほど、優しくて家族想いなので長く拷問に苦しまなければならないという不条理)

相棒が地下留置所で主人公の父親に会ったということは、父親は主人公たち家族が罰せられないために何年も(少なくとも9年以上)ずっと拷問に耐え続けていたことになります

この事実を地上で残されている家族はそもそも知らないという無情(あゝ無情)

残された家族は、父親はどこかに逃げたか別の収容所で生きているか、あるいはもうとっくに死んだと思っていることでしょう(まさか地下で何年も家族に害が及ぶのを防ぐために拷問に苦しんでいたとは思わない)

こういう陰湿なところが本当にひどいやり方だなあと思います(父親が自殺したら家族が罰せられるというのはいわゆる連帯責任ってやつですね。連帯責任っていうのはやはり指導者が好むやり方なんですね)

日本人は同調圧力に弱い民族(G7トップのコロナワクチン二回接種率)なので、ひとたび連帯責任が導入されたらたちまち酷いことになる傾向があると思います

ちなみにこの主人公の父親、両目を潰されてしまっていて盲目です

それでもなお、髪の毛が長髪になって白髪の長い髭が伸びてもなお、拷問に耐え続けているわけです(それくらい家族への愛が強い)

家族への愛を間接的に強く表現できていて素晴らしいと思いました(よくある安っぽい家族愛映画とは違う。家族のために死ぬのが愛じゃなくて、家族のために苦しみ続けるのが愛だという解答ですね)

男は愛のために苦しみながら生きていくもんだよ、と伝わってきます(『男はつらいよ』の渥美清よりも伝わってきます)

相棒が釈放される時に父親が言う「生きろと伝えてくれ」はとても感動するシーンになっています

ぜひ観ていただきたい感動のシーンです(『ライフ・イズ・ビューティフル』という映画で、お父さんが路地に笑顔で歩いていくシーンに匹敵するくらい上出来だと思います)

映画はこの後、強制収容所からの脱走劇へと移り変わります

決行日は4月15日(太陽節=金日成の誕生日。主人公の子ども時代の最初のシーンも4月15日だった)

捕まった時に飲むために、化学工場から塩酸も持ち出してあります(塩酸を飲んで死ぬなんて考えただけでも苦しそうですけど。まあ地下留置所で拷問漬けよりかはマシかも)

青酸カリとかの簡単に死ねる毒物じゃなくて塩酸を登場させるところがリアルです(そして映画としても服用時の苦しそうなイメージから、脱走への緊張感を高めることに成功しています)

ちなみに塩酸は主人公の分はありません(映画では映らない)

主人公は捕まった時の自殺ができないので自動的に拷問ルートになりますね(映画的にもハラハラします)

監視グループのリーダーのおっさんも物資を渡して協力してくれます

亡くなった息子の代わりに主人公たちに希望を託したのでしょう、ちょっと心があったかくなるシーンですね(なお、相棒を地下留置所から釈放するように根回ししてくれたのもこのオッサンだとわかる)

さて、どうやってこの強制収容所から脱出するのか?

詳しくは映画本編を観ていただきたいのですが、一つ言えるのは今まで関わってきた人たちが協力してくれるっていうこと

そして映画で描かれていた伏線を回収する(監視兵たちが南韓国の音楽を聞いていたこと。そして囚人みんなで歌を歌ったこと)

オシッコを漏らしたおばさんや、平壌の弁護士が主人公に協力してくれるのはやっぱり胸が熱くなります

身重の妹と足の骨を折られて曲がってくっつけられた相棒との逃避行は、弱々しくってすぐに捕まっちゃうんじゃないかと不安になります

そしてラストシーンは空を指差して、鳥が飛んでいるんですよね

この鳥は私たち鑑賞者のことだと思う

地図上でそこに国があって、国には当然国民がいることはわかっていても、細かい実際の生活実態はなかなか見ようとしない

でもこの鳥のように俯瞰視点で映画を観ている我々が、この映画を通じて、国の都合で不条理な立場に置かれている人々がいることに気づいてくれるはず、という鑑賞者に映画製作者が希望を託すシーンになっています(鑑賞者が目撃者になる)

はい、とてもいい映画だったと思いますね

最後のオチでまたちょっと感動させるようになってますしね

2020年に作られた1時間33分の作品です

(エンドロールを入れなければ)90分の映画とは思えないくらい内容がとっても濃い映画でした

テーマも奥深く、根底に愛が流れていて映画としても骨太で面白いです(僕の好きなタイプの映画)

そして現代日本への警鐘(というより警告に近い)まで盛り込まれている作品で素晴らしいと思いました

ただ、内容が内容なだけに流行らないだろうなあと思いますね

間違ってもSNSとかでバズる映画ではないです

アナーキーだとか、赤だとかいろいろ思われそうなので人にオススメもしにくい映画(この映画に比べたら『ミッドサマー』のようなホラー映画のほうがよほどオススメしやすいです。変態って思われるかもだけど)

テーマや舞台設定など日本では絶対に作られない映画だろうと思いますので、この作品は貴重だと思います

こういう映画がもっと作られて、鑑賞者が増えたとき、日本の暮らしもだいぶ変わるんだろうなと感じました

個人的には選挙前に毎回テレビで地上波放送して多くの国民が政治や社会の仕組みについて考えるキッカケになればいいと思う(でも実際は社会主義や共産主義への恐怖から特定の政党の支持率貢献になるだけかな。そういえばいつのまにか『火垂るの墓』って放送しなくなりましたね)

とりあえず一回観ただけじゃもったいないので、もう一度鑑賞しようと思いました

以下蛇足

この映画の監督は清水ハン栄治という人です(どうやら字幕も監督が自分でつけているようです。もう一人字幕スタッフがいるみたいだけど)

出演者の中にはマイケル・ササキという人もいます

どうも日本を意識しているような気がしてしょうがないです

安っぽいCGに最初は違和感があるかもしれませんが、映画を鑑賞していくにつれて(物語が展開するにつれて)どんどん登場人物が痩せ細っていったり、血だらけになったり泥だらけになったり、死んだりしていくので、逆にこれでよかったんだと思います

実写では流石にここまでリアルに痩せた俳優を使うことは難しいでしょうし(餓死一歩手前の人が大勢必要)悲惨なシーンをリアルなCGでは観続けるのが辛いでしょう

すぐに違和感はなくなるので、安っぽいCGだと毛嫌いしないで観てほしいと思います

なお、トゥルーノース(True  North)というのは英語の慣用句(それぞれの言葉の意味を超えて特別の意味を表すもの)で「真に重要な目標」という意味だそうです(東映ビデオ株式会社の説明による)

もちろん北朝鮮の真実という意味も含んでいますが、それ以上に重要な意味として(コンパスは常に北を指すことから)正しい方向とか目指す方向という意味ですね(つまり生きる意味)

右翼とか左翼とか西側とか東側とかじゃない、「生きる意味」という深くて大きな題名なんです

監督は名前からして在日コリアンと思われますので、やはり日本を意識しているように思います

北朝鮮は強制収容所の事実を認めていないので、近い将来、証拠隠滅で強制収容所の囚人ごと抹殺(ジェノサイド)されるかもしれないわけで、観客に彼らの存在を知ってもらう事でそれを防ぐ目的もあるようです(中国のウイグルみたいですね。あるいは第二次世界大戦のナチスが収容所で虐殺したようなことが起こりうる可能性があると監督は危惧しているようです)

エンドロールの衛星写真で収容所が写っていることから、この映画はフェイクではないでしょうね(様々な取材や考証を基にこの映画が作られているというのがわかるようになっています。大げさに根も歯もないことを描いているわけではないという事実。そしてこの映画が作られたのは2020年[公開されたのは2021年]という真新しさにも震えますね)

日本もミサイルが届くくらいの距離にいるわけで(皮肉で言ってます)決して見過ごせない問題ですね

日本は少子化で超高齢化社会という政府主導による間接的なジェノサイドを行っていると言えなくもないわけで、他人事と軽く考えられないです(この監督のように在日と呼ばれる人々が増えていけば、日本人そのものが少なくなっていきますしね。すでにドイツでは18.8%の人が移民です。日本も人口問題を解消するために移民受け入れ議論があります)

現代社会はあまりにも複雑化してしまい、無知は罪となってしまったようです

罪は償わなければいけません

償いとはすなわち、この過酷な社会生活です(無知な人が多いと社会生活は厳しくなる)

少しでもこの状況を良くするためには知ろうとする勇気が必要です

私たち一人一人の勇気がこの社会を良くしていくと思います

苦しくてツラい日々に諦めず、勇気を出して知ろうとすることが大切です

我々日本国民には幸福を追求する権利があるんです(日本国憲法13条に規定されています。ちなみに同じ13条で[すべて国民は、個人として尊重される]とあるため全体主義を否定しています)

よって僕がこんな自分勝手な日記を書いても(今は)たぶん大丈夫なはず(なお、改正憲法草案では[個人]をただの[人]に変えようとしているようですね。ほかにも[公共の福祉に反しない限り]という部分を[公益及び公の秩序]に変えようとしているようです。公益って誰にとっての利益なんでしょうか?国の指導者かな?)

多くの人がこの映画を観て、自分の生きる意味をもう一度見つめ直すキッカケになれたらいいなあと思いました

なお、特定の政党及び宗教に思い入れがあるわけではありません

ぼくは日本という国が平和で、日本国民が幸せを感じることができるようにいつも願っています