よくある復讐物語に人種差別などを絡めた評論家ウケの良さそうな映画。でも裏テーマが実はすごい
迫害を受けている者もまた、誰かを迫害している
主人公のクレアがホーキンスに軽く扱われていたように、クレアもまた黒人(あえて映画では黒人と表現している)のビリーを軽く扱っている
ビリーという名前があるのにあえてボーイと呼んでいる(固有名詞ではなくてその他大勢と同じ感覚=消耗品=物扱いしている)
レイプの表現はその国が相手に行なっているひどい行為を表している(強引に自分の要求=欲求を満たす行為という表現です。相手に有無を言わさない外交も含めて)
イギリス人とアイルランド人とオーストラリア先住民(黒人)という図式
そして実はそれぞれの中でも色々分かれているということがわかる
例えばイギリス人であるホーキンスの一番の部下である軍曹
この軍曹もまた主人公クレアのレイプ現場を見て「ひどいことするなあ」っていう表情を浮かべるが、ホーキンスが終わった後(ホーキンスは早漏)「お前も使っていいぞ」って言われた途端にノリノリでやってしまう
そしてその軍曹より下っ端のジャゴはまだ優しい性格で、クレアのレイプには加わらず(というかそもそもやらせてもらえないで)ホーキンスに「女を始末しろ」と言われてしまう
この力関係がまさに国際社会を表しているような気がしてならない
イギリス人は当然イギリスを表現しているのはもちろん、劇中の描写からもわかる通りアメリカを隠喩している(黒人を殺して自分の物にしようとしている描写や無法地帯の様子はさながら西部劇みたい)
つまり一見するとイギリスとオーストラリアという馴染みの薄い表現にすることで、間接的にアメリカを取り巻く国際社会を批判しているのであります
ね、なんだか一気に身近に感じられるでしょ
となると、日本はどのキャラクターになると思いますか?
ぼくはジャゴだと思いました
ジャゴは女を殺せと言われるが結局銃を撃たない(憲法9条の先制攻撃の拒否ですね)そしてホーキンスや軍曹のやっていることが悪いことだとわかってはいても大っぴらに否定はできない弱い立場(日本はアメリカをはじめとする西側諸国の非道には目をつぶる。というか立場上それしかできない)
そして主人公のクレアの復讐相手として真っ先に標的にされているのもジャゴです(弱いから黒人集団の襲撃を受けて負傷している)
弱っているところを助けてもらえずにトドメを刺されてしまうんですね
イギリスやアメリカの子分で真っ先に狙われる弱い立場の人物(国)という際立った存在として描かれています
そう、日本と同じように狙われている国がありますね
ウクライナです
アメリカやイギリスに言われるままに核を放棄してロシアに侵略を受けているウクライナ
ウクライナの現状を日々知りつつも結局誰も直接武器を持って戦う人はいないのです
ホーキンスは北進を続ける道中でも黒人女性(小さな息子がいる母親)を見つけてレイプします
このとき、案内人(チャーリー)もいるんですが見て見ぬふりをするんですよね(表立って助けようとしない。自分も黒人だから逆らったら殺される)
この案内人の黒人であるチャーリーがレイプ現場から背中を向けて去っていく感じがまるでウクライナに対するEUみたいです(自分にとばっちりがくるのが嫌で積極的に介入しない姿勢)
最終的にこの黒人女性を助けるために戦士たちが投槍でホーキンスたちを襲います
しかし結果的にこの黒人女性を助けることはできず、ホーキンスも逃げてしまうのです
面白いのはこの後、ホーキンス一番の部下である軍曹にホーキンスが殿(しんがり=隊列の一番後ろ)を命じます
見張りをするとともにいざとなったら盾になれって命じるんです
ホーキンスに仕えて北進を続けてきたのに軍曹はイザとなったらホーキンスに見捨てられるってことです(例えば日米安保があるとはいえ、日本がこうなるんじゃないかと心配です)
そしてホーキンスは荷物の運び役として雇っていた少年を先頭に立たせます(ちゃっかり軍曹以外にも盾にする人物を養成しているんです。アメリカがあちこちに基地を作るようなもんです)
核武装すれば互角と考える人もいるみたいですが、この映画ではそれを否定しています
それがわかるのが主人公の夫が殺されるシーン
夫は銃を持っています
そしてホーキンスに殴られた仕返しに銃を発砲しようとしますがホーキンスとその部下に阻止され、結局その銃を逆に奪われて自分が殺されてしまうのです
なんとも皮肉
この銃を核兵器に置き換えて考えてみるとわかりやすいと思います
気づいた時には家(領地)にドカドカ入ってきて銃を持っていても構えて撃つ余裕がない(核を使う余裕すらない)
そして結局銃を奪われて殴られて(攻撃されて)最終的に銃(核)を手に取りますが周りにいた人物(国)の妨害にあい結局使えずに自分が銃(核)で殺されてしまいます
武器を持っていても実際に使えなければ意味がないわけで、一番強力な武器(映画では銃ですが、現代社会では核)を使うのには覚悟がいるということです(先に撃てば自分が大罪人になってしまう)
しかも実際には1人(1国)に向けて撃っても周りの人物(国)が銃(核)で応戦してくるだろうと考えてしまい、咄嗟に話し合いで解決しようとします(夫はホーキンスに謝罪までします)
これはとても考えさせられるシーンでした
ホーキンス側の言い分としては「先に銃を向けてきたんだからやむなく殺したんだ」という大義名分になってしまっているわけです
そしてこの映画がよくできているのは、主人公のクレアは自分の息子の亡骸を抱いたまま法に訴えようとしますが結局法は取り合ってくれないってことです(裁きを求めますが信じてもらえず、さらに手続きがトロくてやる気がない=まるでロシアのウクライナ侵略に対する安保理みたいに機能してない)
仕方なく主人公のクレアは黒人の案内人(ビリー)とともに自力で決着をつけるべく追跡を始めるっていう展開なんですが、ここまででこの映画の世界情勢を切り取った表現にはただ驚くばかりです
映画としても綺麗な女優さんが主人公のクレアを演じていて(しかも歌も上手い)たしかにこれなら三年も禁欲生活を送っているホーキンスが暴走するのも無理ないなとわかる作りになっています(でもだからって強姦はダメ。ゼッタイ)
主人公の夫も朴訥とした優しそうな男だし、なにより息子役の赤ちゃんがめっちゃ可愛い
それだけに、この2人を殺された怒りにとても共感できます
いわゆる仇討ちストーリーを追跡劇に絡めることで単純に映画として面白く観ることができます
ホーキンス役の俳優がイケメンなのが憎い配慮ですねえ(早漏っていう設定は長い禁欲生活っていう状況の説得というよりも、映画の尺の都合かと思いました。この映画の上映時間は2時間16分もある)
ジャゴが死ぬ間際に「お母さん・・・」って呟いたり(彼も誰かの息子であって、悪役の中では一番いい人設定なのも憎い演出ですねえ)
殺す気はなかったと釈明しても、主人公にとっては息子を殺された憎い敵であって、無理やり上官の命令に従っただけだけど、やっぱり仇討ちの対象になっちゃう(ウクライナの侵略にきた徴兵された若いロシア兵っぽい)
2019年という絶妙なタイミングでの映画公開でもあります(コロナ発生からのロシアによるウクライナ侵略が繋がっている事象だと考えるならば、この2019年はまさに始発点)
すでにいろいろ予測していた人たちがいたってことでしょうね
世界情勢に敏感な人たちが警鐘を鳴らす意味でもこの映画を製作したんじゃないかと勘繰ってしまいます(第75回ヴェネツィア国際映画祭で二冠)
この映画の裏にある部分まで深読みした人が映画賞を与えたような気がしてしょうがないです(ただの復讐映画なんて世の中にゴマンとあるわけで、この映画がそれらと一線を画してるのは裏テーマの国際情勢の描写だとしか思えません)
世界中の国々(日本も含めて)がナショナリズムへ向かいつつあるように思う昨今、このような映画が作られたことは大変意義深いと思います(主人公のクレアはアイルランド人でイギリス人を憎んでいるし、黒人は迫害されているので案内人のビリーはそもそも白人が嫌いです)
お互いに反目し合っていても実は分かり合えるんだという一面の描き方がうまい(話せばわかるとかの青臭いやつじゃなくて、敵の敵は味方っていうすごくドライな関係)
主人公クレアがただの白人だと思っていたら実はアイルランド人で、イギリス人を憎んでいる。白人の中にも黒人である自分と似たような(悲惨な境遇の)人がいるんだということがわかったビリーの衝撃は大きかったでしょうね
なお、我々日本人もカラーズ(有色人種)ですので映画の中では主人公のクレアに感情移入して観るとともに、どうしても僕なんかはビリーに感情移入してしまいますね
ビリー、めっちゃ逃げるんですよ
だって白人に見つかったら問答無用で銃撃たれるんだもん
それでもしばらくするとちゃんと主人公のクレアのところに戻ってくるんですよね(案内するため)
そして自分のルーツや民族に誇りを持っているわけです
「白人はおれの家族を殺しておきながらおれに白人(みたい)になれって言うんだ。無理だよ」って言うように白人文化に染まることを拒否しているんです
でも主人公のことを行きずりの男たちに強姦されかかるのを助けたり、川で溺れかける主人公を助けたりするんですよ
いい奴なんです
ただでさえ白人に見つかったら殺されるっていうのに主人公は白人の軍人将校であるホーキンスを殺そうとしてるんですよ
どう考えても行き着く先は地獄なんです
それでも主人公の様子を見て(主人公は乳飲み子がいたため、服がしょっちゅう母乳で濡れちゃう)なにかに気づく、でも何も言わない
カッコいいんですよねえ(見た目はホーキンスの方がイケメンで、ビリーは小汚い格好だし冴えない感じなんですけどね)
パッとしない見た目なんだけど追跡の能力がすごかったりして只者じゃない感じがまるで刑事コロンボのようです
2019年だからギリギリ製作できたように思いますね(今だとあからさますぎて逆に作れないでしょう)
裏テーマでなくて表立って表現した映画だとプロパガンダ臭が強くて受け入れられないでしょうし、そもそも誰も観ないでしょうし
そしてホーキンスたちの案内人のチャーリーおじさんもいいキャラしてる
何も言わずにちゃんと復讐するんですよね
表向き仲間なのにいつ裏切るかわからない感じがまんま侵略者に対する現地人の対応(無理やり力や金で味方にしても根底に侵略者への根強い反感がある)
一番の部下である軍曹をちゃっかり切り捨てて新しく少年を取り込むあたりもいかにも強国のやり方(気に食わなければ容易に切り捨てる。日米安保が不安な人はこういう行為を危惧してるんでしょうね)
さらにこの軍曹を殺そうとするシーンのホーキンスが少年に生死を決めさせるのもずるいやり方(自分では決めずに別の人間が決めたことにして責任を回避。そして生かしたとしても相手を精神的に追い詰める陰湿なやり方)
役者の演技が上手すぎてまるでドキュメンタリーみたい(チャーリーおじさんは死んでる演技でも目を開けたまままばたきをしない。つまりホーキンスたちは撃ち殺してそのまま放って行ったということ)
僕がこの映画でどうしても受け入れられないのは、この主人公クレアが肝心なところで復讐をやめちゃうところ
「家に帰りたい」とか言い出す
ホーキンスに銃を向けたのに撃たないどころか、逆に肩を撃たれてしまってそれでも「家に帰りたい」って言うんですよ(家に帰っても姿を見られちゃってるし、ホーキンスに銃向けてるし、無事で済むとは思えないんだけど)
こんな変な展開になぜしたのか?
普通は夫と息子を殺されてるんだし、一人(ジャゴ)復讐で殺してるんだから、最後までやり通すはず(実際銃を向けるところまではやったわけですし)
急に怖くなった、あるいは復讐の虚しさを知ったと強引にとらえることもできるけど、どうしても深読みをしてしまう
それは、結局弱いものが武器を持って刃向かったところで最終的には強者を倒せないってこと
身も蓋もない言い方だけど、これが真実なんじゃないかと思います
何度も人に銃を向けてきてるし、訓練も積んでるし、自分の野望のためなら誰かを殺すことなんて構わないっていう人(国)に対して、弱い立場に置かれていた主人公クレアのような人(国)が同じように銃(核)を持っても、最終的には撃てないんだよねってこと
イザというときにためらいもなく引き金を引けるかどうかの覚悟が違うんだと思います
弱者同士なら撃てても、自分を圧倒するような強者に対しては無力ということ(今まで抑圧されてきたせいで、あきらめが身体に染みついちゃってる)
武器というのは持っているだけじゃダメで躊躇せずに撃てるかどうかが肝心なんですね(日本が核武装したとして、戦時に総理大臣がすかさず撃つという決断を下せるでしょうか?検討に検討を重ねて結局撃てなかったりしないかな)
主人公クレアはビリーに銃を渡してベッキー(夫が残した馬)を守ってと頼む
そしてビリーが馬を連れて主人公クレアの方へ向かっているとホーキンスたちに見つかってしまう
ビリーはすかさず銃を撃とうとしますが軍曹が格闘をしかけて奪われてしまいます(多勢に無勢ですし。1人に銃を向けている間に別の人間に接近戦を仕掛けられたら同時には相手できない)
ビリーに町へ向かう道まで案内させた後にまたホーキンスがけしかける。
少年にビリーを撃ち殺せと(自分は手を汚さない。そして自分の指示をどこまできくのか試す)
なんか、独裁者みたいなホーキンスです(まるでいじめっ子)
自分の言う通りに行動しなかったら罰を与える(つまり粛清ですな)
少年も流刑囚で刑期を5年延長されてしまう(ビリーをちゃんと撃ち殺さなかったから)
そもそも道の真ん中でそこにいろっていう命令自体が残酷(子どもの命なんてどうでもいいんですね)
許してほしいと泣いてすがる少年を撃ち殺すホーキンスはもう悪魔(独裁者)
で、またもや軍曹が一番の部下に返り咲くという(軍曹にとって少年は命の恩人なのに助けないんですよ)
なんかイヤ〜な気分になるシーンです(この映画は子ども殺しという映画制作のタブーに積極的に斬り込んでいます。現実の戦争でも子どもが犠牲になってるので、極限状態に陥るとこうなるよねという説得力)
馬車に駆け寄って乗せてくれるように頼む主人公クレアに対して御者は娼婦だと思って追い払う
馬車の中にいた貴婦人は馬車の後ろに主人公クレアを乗せてはくれるけど、口をきこうとはしない
このあと町についた主人公クレアとビリーが出会う人々が象徴的
基本的にビリーのような黒人の命をなんとも思ってない連中が多い中、ある老夫婦が優しくしてくれるんです
特にこの老紳士がいい人
床に座ってるビリーに一緒の食卓で食事をするように促すんです
ビリーは感動して涙目
全員が悪いやつではなくて、いい人も(少数ながら)いるということですね
老夫婦の家で一泊した後、町まで送ってもらった2人は偶然にもホーキンス軍曹に出会います
盗人の娼婦扱いされた主人公クレアはホーキンスと最後の対決をしに行きます
この映画のクライマックスともいえるシーンなんですが、まあなんとも地味
「男と赤ん坊を殺して何がしたいの?ママに愛されなかったの?」というセリフが印象的ですね
そして歌を歌って心を動かそうとします
普通はここで感動的な展開になるはずなんですが、なにも起こらず、主人公クレアとビリーは馬を盗んで(元々はクレアの馬ですが)町から離れるんです(ゼレンスキー大統領の演説みたいです)
焚き火をしながら主人公クレアがビリーに「黒人にもああいう奴はいるの?」との質問に「いるよ」とビリー
「どうするの?」と聞かれて「年寄りが正しい道に導く」と答えるんです
若い人の暴走を止めるのは年寄りだという主張です(じゃあ年寄りの暴走は誰が止めるんでしょうね)
「それでも言うことを聞かない人はどう直すの?」との問いに対して「直さないよ、殺すんだ」という答えにゾクっとしますね(独裁者は殺すしかないってことですね)
このあとの展開は予想ができると思います
ビリーはホーキンスと軍曹を殺しに町に戻ります
手傷を負いながらも見事に2人をやっつけるビリー
2人で海岸まで出て日の出を見るラストで終わります
日の出ってことは映画的にはこれから物事が新しく始まる前兆でもありますので、一応はハッピーエンドなのかな
ビリーの生死をはっきりと映さないので集落の最後の生き残りであるビリーもまた、ここから新しく人生が変わっていくというメッセージにも受け取れます(黒人が将校を殺したんだから、普通に考えれば残酷な未来しか思い描けませんけど)
映画としては主人公クレアの復讐が途中から黒人ビリーの復讐劇に切り替わっているんです
つまり途中からクレアは傍観者になっちゃうんですよね
でも最終的には自分の目的を果たすという
直接手を下したのはビリーですから、捕まって酷い目にあうのはクレアではなくてビリーだと思います
クレアはあくまでも被害者として振る舞っていくと思います
でもね、思い出してください、主人公クレアも1人殺してますよね
そうジャゴです。一番弱いやつ
単純に映画だけ観ると、自分の息子を殺した男に復讐したら、あとは夫を殺したやつや自分をレイプしたやつはどうでもいいっていう風に観えちゃうんですよね
もう少し穿った見方をすると、一番弱そうなやつ以外は他人であるビリーに殺させてるんですよね
二人の復讐劇というようにこの映画は描いているんでしょうが、どうしても主人公クレアが策士で、ビリーに復讐代行をさせたように見えちゃうんです(特に最後の方はしょっちゅうビリーに銃を渡してけしかけてるように見えちゃう。自衛のためという建前なんでしょうけど)
言葉巧みに「ホーキンスみたいなやつをどうするの?」なんて質問攻めにして間接的にけしかけてるように思えてしょうがないんです
ビリーは最初に出会った時は「面倒はゴメンだ」って言って関わろうとしなかったんですよ
でも最後はガッツリ関わるし、自分が殺すことになる
おまけに負傷までするし(罪人にもなっちゃう)
どう考えてもビリーは貧乏くじ引いたように思えてしょうがないです(主人公クレアの案内人にならなければチャーリーおじさんの死に立ち会うこともないし、結果としてチャーリーおじさんの思惑どおり、ホーキンス達は道に迷って死んでたと思うんですよ)
結局ビリーも主人公クレアの手の上で巧妙に踊らされてるような気がするんです(代理戦争っぽい)
虐げられてはいても、一応安全に暮らしていたビリーを無理やり揉め事に巻き込んで、自分の目的を代わりに果たさせる
そういう損な役目をビリーにやらせた主人公クレアも、この映画のホーキンスのように自分の目的を果たすためなら手段を選ばない人物に見えてきます
ビリーは我々日本人と同じ有色人種ですので、どうしても欧米人の揉め事に巻き込まれる日本人として見えてきてしまいます(特にジャゴ殺害後)
裏テーマを掘り下げなければ、いわゆる復讐劇と追跡劇に人種差別を盛り込んだだけの、そこまで深い映画ではないんですよ(どのテーマも使い古しばかり)
でもこの裏テーマを深く考察すると、今までなかったような国際感覚にすぐれたメッセージを見つけることができるんです(深読みしすぎでしょうか?)
特に派手なシーンがあるわけでもなく、淡々と進んでいく映画ですがその背景にある隠された裏テーマを自分なりに考えながら鑑賞すると一味違った映画感覚を味わえること間違いないです
昨今の世界情勢や日本の国内世論を受けて、自分なりに考えながら観るべき映画として大変意義深い作品であると思いました
以下蛇足
プーチンのウクライナへの侵略はひどいと思います
戦争には反対です。ぼくは暴力が嫌いです
日本は難しい立場なのもわかりますし、これから日本がどうやってこの難局を乗り切り世界で生き残っていくのかに関心があります
日本を守るためにいろいろ考えるのは大事だと思います
日本も軍隊や核兵器を持つべきだという考え方も理解できます
ですが、この映画でも描かれているように武器を持ったからといって、絶対に争いが起こらないわけではありません(だからといって、武器を持たなければ争いが起こらないわけでもないのが難しいところ)
争いの果てにあるのはなんなのか、結末はこの映画のラストシーンのようなものになるかもしれません
僕はそれよりもいっそ消費税をなくしちゃったほうがいいような気もします
世界には軍隊も消費税もないのに平和を保ってきた国が実際にあります
例えばサンマリノ共和国。ちなみに現存する世界最古の共和国で、首脳は2人で任期は半年。つまり半年ごとに選挙で首脳を選ぶんです
そしてサンマリノ共和国は軍隊を持ってません(消費税もありません)、そのかわり政府は16歳から60歳までの全国民を動員できる権限を持っています。さらにEUには加盟していません(参考として、ウクライナもEUに加盟していません)
もちろんヨーロッパの国とアジアの島国日本を同列に語るのは無理があることはわかっています(サンマリノ共和国は周りをイタリアに囲まれています)
でも日本で核シェアリングを議論するならこういう国があることも参考にして消費税撤廃も共に議論するのがフェアな考え方だと思います(イタリアも米国の核兵器を受け入れています。ニュークリア・シェアリング政策の一環として)
核兵器もなく消費税もない国であっても日本よりも長く平和を維持している国もあるんですよ(サンマリノ共和国は第二次世界大戦中は中立でした。しかしイギリスにナチスを匿っていると疑われて空襲され市民60人くらいに死者が出ています)
ついでに書いておくと、1950年代にすでに自衛隊とアメリカ軍との間でアメリカの核弾頭を提供する形での核共同保有が検討されていました(いまの若い人たちは多分知らないんだと思います)
第五福竜丸事件(アメリカの設定した危険水域の外にいたのに被曝した事件)が起こったために取りやめになっています(ここから日本の反核運動が盛んになり、あの名作映画『ゴジラ』が誕生するわけですね)
ゴジラは核の隠喩なのは映画を観ればすぐにわかります(核による被害者という考え方もできますよね)
そして1968年に米軍が沖縄から核兵器を撤去する際にも(さらっと書いたけど沖縄に核兵器が配備されてたんですよ)やはりアメリカから日米合同の核戦力海上部隊の設立要求がありました(沖縄返還は1972年)
でも結局日本は核兵器を持たないという決断をしたんです(当時から既にロシア=ソ連は核兵器を所有してました)
東西冷戦の真っ只中にいた日本が自らアメリカの打診を断って核兵器を持たない選択をしたということです
今とは状況が違うとはいえ、過去のこうした流れをちゃんと整理した上で自分の考えを持つことが大事なように思います
ちなみに当時は日本に消費税はありませんでした。消費税導入は1989年からです
なお、EUの加盟国は付加価値税(日本でいう消費税)を15%にすることが義務付けられています
アメリカ合衆国は国税として消費税を取り入れていません(法人税や所得税に比べて消費税が優れているとはいえないという理由)
東西冷戦時代を消費税も核兵器もなく乗り切ってきた日本について、もう今の人たちは忘れちゃってるんでしょうね(今とは時代が違うと言われるんでしょうけど)
1人の日本人として現時点での僕の考えをここに残しておこうと思います(太平洋戦争の研究では当時の日本人の日記がとても貴重な資料になるんだそうです。当時の人々の考え方を知る手がかりになるんだとか)
ウクライナの人々に1日でも早く平和が訪れることを願っています
以下駄文
日本の核保有について思うこと
核を持ったからって、それが本当に抑止力になるかはわからない
今回のウクライナへの侵略はモスクワに近いところにNATOの息のかかったウクライナが誕生する(ウクライナからモスクワに向けたミサイルを配備できる)と考えたプーチンの蛮行に思う
つまり日本がこれから核を保有できるように(あるいは米国とシェアできるように)議論をするとして、その過程で何らかの言いがかりをつけられて隣国から侵略を受ける結果になると思う
隣国が核保有国ばかりで侵略されるのが心配だから核を保有したいと考えたとする
それなのに核保有すること自体が侵略を招く結果になる(隣国にとって大義名分になる)と思う
ウクライナはかつて核を保有していた
でも結局米国や英国やロシアによって手放す結果となった
日本が仮に核を保有しても同じように手放す結果になると思う(ならないならとっくに核を保有しているはず。今まで核を保有してこなかったということ自体がすでに日本に核兵器を配備させないという何らかの圧力がかけられた結果である。国内外問わず)
さらに危険なのは、第二次世界大戦の日本のようなイケイケドンドンな戦争気運が国内に醸成されないかという懸念である
武器があれば使ってみたくなるのが人情である
憲法を改正し、核を保有したら、次はきっと戦争をすることになる
いま核保有を考えている人々は「侵略されないために保有する」という考えの人が多いと思う
でも時が流れれば「核を保有しているんだからもっと強気に交渉するべきだ」とか「我が国は核を持っているんだから、持っていない国に侵略しても反撃されないならこちらから侵略してしまおう」といずれ考えが軍国主義的になるのではないかと思う
第二次世界大戦の時のような気運が高まるのは危険に思う
核保有した時点でおそらく今回のウクライナのように全世界的な同情を集めることはできない
さらに核保有している状態で時の首相が常に正しい判断をするかはわからない(日本の総理大臣がプーチンみたいに戦争するって言い出したら誰が止める?総理大臣は核爆弾のスイッチを持ってるんですよ?)
日本の軍備を増強するということと、核保有するということは必ずしも一致しないと考えなければならないように思う
隣国が核保有国ばかりで危険な状態だからこちらも核を持とう。隣国がミサイルを撃ったからこちらも撃とうと考えたとする
その結果、では日本はその隣国(北朝鮮や中国やロシア)をまとめて相手することになるのではないかという懸念がある
日本の国土が焦土と化す代わりに、それらのいわゆる共産圏の国に核兵器を使用してほしいと願う第三勢力もいるかもしれません(ヨーロッパと違って日本は島国なので核の報復合戦で国土がやられてもヨーロッパは比較的被害は少ないでしょうね。アメリカもそうです。日本は離れているので。誰かの代わりに日本が核戦争をすることになりそうです)
つまりこの先、日本が核保有をするとして、それに協力的な国があるとするならば(アメリカが協力しなければ実現しないと思いますが)その協力的な国は日本に核保有を認める=日本に核兵器を使わせたい国だと思う(『ゴッドファーザー』という映画を観たことがあればすぐにわかる構図。親切そうに会談の話を持ってきた人物が裏切り者っていう有名なあれ)
つまり日本が核保有をしたらそれをキッカケに日本は国際社会において危険なバランスゲームをすることになる
そんな国際バランスに優れた政治家がアジアの島国日本から誕生するとは思えないし、仮に誕生したとして常にそのバランス感覚が保てるかはわからない(第二次世界大戦の時は無理だったことは証明済み)
それに、核兵器を持つことによるお金の心配などはしなくていいのでしょうか?(莫大な維持費がかかると思います)
冷戦時代のように核保有を競う時代に自ら突入するのでしょうか?(隣国であるロシアや中国に張りあえるだけの核を保有するとなると相当お金も時間もかかりますし、維持費も莫大ですよ)
さらに、侵略されたからすぐに核を使うという時代ではないように思います(今回のウクライナ侵略でもロシアは地上戦を展開しています。現代戦はいきなり核ミサイルを撃ち合うのではなくて、結局のところ地上戦が繰り広げられています)
国を心配する気持ちがあるなら、いざというときに戦う勇気を持つことです(まさか核を保有しているからって、実際に侵略されたときにすかさず首相が核兵器を使うと考えているのでしょうか?例えばどこかの島に敵が攻めてきたとして、その島を取り返す戦いをせずにいきなり相手国に核ミサイルを打ち込むなんて戦略を考えているんでしょうか?)
地上戦や市街戦になったときに現在のウクライナの人々のように愛国心を持って国土を守るという決意を固められるかが一番大事だと思います(ウクライナでは一般市民が銃を手に取ってまで戦うという意志が固いです)
日本にいま必要なのは核兵器ではなくて愛国心だと思います
本当にこの国を愛せるようにしなきゃいけません
投票率が過半数に満たないような日本国民が、他国から侵略を受けたときに一致団結して戦えるかが肝心です
国に関心のない人が多い中(つまり政府を監視する国民が少ない状況の中)核保有をするのは危険だと思います
あくまでも現時点で核保有をすることが危険だと言っているのであって、未来永劫核保有をすべきではないと考えているわけではありません(とはいえ、核兵器なんかない平和な世界を目指すべきだとは思います)
少なくとも現在の日本国において(ウクライナがロシアに侵略されたからといって)すぐに核保有をすべきという考え方はあまりにも短絡的で危険だと思ったまでです
2022年3月1日 和田昌俊