マンネリ夫婦を正面から描いた夫婦の再生ラブストーリー。でもひねくれ者の監督だから散々罠が仕掛けられてる
一言で言ってしまえば中年夫婦のラブストーリー。いわゆる結婚して長く一緒にいるとどうしても出てくるマンネリというやつ
このマンネリ夫婦がお互いの愛を再確認するラブストーリー
なんだけど、これをただ映画にしただけじゃつまらない(そんな中年夫婦が愛を再確認するなんてお話はこの世にありふれてるから)
ひねくれ者のスタンリー・キューブリック監督は鑑賞者に悟られないようにわざとたくさんの罠を仕掛けている
たとえば1番たくさんある罠は裸のシーンだろう
この映画では嫌ってほど(ぼくは嫌じゃないけど人によってはうんざりするほど)裸が映ります
これは映画の途中までしか観てないと、ただスタンリー・キューブリック監督がスケベでいろんな女性の裸を映したかったからだと単純に捉えがちですが、ちがう
女性の裸を頻繁に映すことで視覚的にも思考的にも映画の本筋(中年夫婦の再生)をわからなくするとともに、主人公のトム・クルーズが置かれている状況(たくさんの誘惑)を鑑賞者にも味合わせることで、主人公の境遇と一体化させる狙いがあります
いわばマジックで観客の目を逸らすためにわざと美女に仕掛けを手伝わせるトリックのようなものです
そのため、出てくる女性の裸はみんなキレイでスタイル抜群。スタンリー・キューブリック監督のこだわりっぷりがうかがえます(このあたり、中高年のたるんだボディを映したがるアリ・アスター監督とは違うところ)
ちなみに最初の罠は1番最初のカットです
たぶんほとんどの人はニコール・キッドマンのお尻しか観てないと思うんですが、この時、よく見ると次のシーンと服が違うんですよね
つまり服を変更しているんです(普段着からパーティ用の服に着替えたわけではなく、パーティ用の服から別のパーティ用の服に着替えている)
最初のカットではかなり露出のある大胆なデザインのドレスですが、次のシーンではやや露出を抑えたドレスで登場します(この時もニコール・キッドマンがトイレしているというサービスショットのため、見落としがち)
ようするに大胆な服で行こうかと思って、一回は着てみたんだけど、やっぱりおとなしめの服にしようと思って着替えたことがわかります
夫であるトム・クルーズに不満はあるけれど、だからといって他の男をひっかけるつもりはないというのがこのドレス選びでわかるようになっています
だからこの後のパーティシーンで散々口説かれていてもどこか乗り気でないのがわかります(そもそもパーティで他の男とヤルつもりなら最初のドレスを選んでいたはずだから)
そしてこのトイレをしているシーンではもう一つ大事なことがあります
トム・クルーズは奥さんであるニコール・キッドマンのほうを見てません
「私、どう?」ときいているのに、ニコール・キッドマンのほうを見ずに「完ぺきだ」とトム・クルーズが答えています(ほとんどの鑑賞者はこのときニコール・キッドマンの太ももからお尻に目が集中しているため、トム・クルーズが奥さんのほうをチラッとも見ていないことに気がつかない)
せっかく夫の仕事先のパーティに行くためにドレスを選んだり髪をセットしたりしてるのに、夫であるトム・クルーズは、なあなあで自分を見ようともしない(久しぶりにがんばっておめかししたのでオシャレした自分を見てほしいという奥さんの気持ちがわからない夫)
これだけの情報量を映画開始からわずか1分40秒ほどで詰め込むんだからさすがスタンリー・キューブリック監督はすごいと言わざるを得ません
こうやって一見意味がないように思わせておきながら裸や濡れ場を多く登場させるので、この映画はともすると誤解をされかねませんね
監督が色ボケして、とりあえず女の裸を撮りたくて映してるだけのスケベ映画だと思われそうです
もったいない、じつにもったいない
たしかにしょっちゅう裸は出てくるし、濡れ場も多いのでよくわからないってことで途中で鑑賞をやめてしまうのも無理ないですが、最後まで鑑賞すると、そういうことだったのかとわかる仕掛けがあります
ではこの映画を裸を映さないで撮ったとしたら、やはりそのへんに転がってるような陳腐な夫婦物の再生ラブストーリーものになってしまうでしょう
トリックを見破られないためには、鑑賞者の目を逸らす必要があるわけで、そのためにはやはり裸が必要だったと思います(そしてそれだけの裸を映して正面から堂々と夫婦愛を語るからこそラストシーンの説得力が増します)
この映画の山場としてはトム・クルーズが潜入する秘密のパーティのシーンだと思います
このときのBGMがとてもいい雰囲気です
そして仮装している人たちと仮面のせいで、なんとなくホラーっぽい雰囲気まである
トム・クルーズは謎の美女に時折警告を受けますが、帰りません
この仮装や仮面にもこだわりが感じられます
中央の広間でパスワードを強要されるとき、トム・クルーズの存在が際立つようにこのときだけネイビーのマントになっているのが芸が細かい部分です(トム・クルーズは黒いマントを衣装屋から借りている)
この忠告してくれる女性がいったい誰なのか?という部分も興味深いところ(身体をよく観ていれば、過去に登場したあの人物だとわかる。ヒントはオッパイの形)
そうなんです、登場する女性たち(裸)にもちゃんと意味があって、ボンヤリと観ているだけだと見落としてしまいます
ちなみに貸衣装屋で赤いパンツを履いたおっさんが個人的にツボりました(めっちゃおもろい。これドリフのコントみたいになってる。スタンリー・キューブリック監督はもしかしたらドリフを観たことがあるのかもしれません。どことなく志村けんを連想させるアジア系俳優を起用してるし)
マンネリにうんざりしている奥さん(ニコール・キッドマン)に煽られてトム・クルーズは頭の中が寝取られたという妄想でいっぱいになります(実際には奥さんはヤッてない)
その妄想のせいでトム・クルーズは浮気に走ろうとするんですが、結局どれも中途半端に終わります
最初に街娼の家に行った時はどことなく乗り気でなかったトム・クルーズは2回目に訪れた時、めっちゃやる気だったのに肩透かしをくらいます
HIV陽性という爆弾をここで使うことによって、スタンリー・キューブリック監督から鑑賞者も警告を受けます
遊んでると命を落とすぞ、と(これがパーティシーンでの警告とも繋がる上手い伏線になってます)
生活に刺激を求めると人はより強い刺激を求めるようになり、ドラッグや不特定多数との性交渉は身を滅ぼすことになるぞ、という警告なんです
この警告があることによってこの映画がただの色ボケ映画ではなく、マジメな映画なんだとわかります
ではただの遊び警告映画ではなく、夫婦再生映画だとなぜ言えるかというと、やはり中心がトム・クルーズとニコール・キッドマン夫婦にあるからです
散々裸や濡れ場がある中で、主人公夫婦の性交渉を巧妙に隠していることでより際立っています
その証拠にこの『アイズ・ワイド・シャット』という映画ではたくさんのベッドシーン(濡れ場)が出てくるけど、主人公夫婦のベッドシーン(腰を振っているようなシーン)はただの一度も出てこないんですね
秘密のパーティシーンであれだけあけっぴろげに濡れ場を撮った監督とは思えないほどあっさりとした描写です。肝心の夫婦の営みがすごくあっさりしていることにこの映画の「夫婦の再生」という部分がわかるようにヒントになっているんです
だからこそ、1番乱れている場面の秘密のパーティシーンではこれでもかってくらいに濡れ場を映さなければならないんです
逆にここを諸般の事情でお尻を映さないようにしたり隠したりしてしまうと主人公夫婦の営みとのギャップがなくなり、たちまちこの映画の「夫婦の再生」という部分がわかりづらくなってしまいます
仕事先のパーティから帰った夜、トム・クルーズがニコール・キッドマンにキスしたりイチャイチャはするけど、そこで暗転になってしまうんですね(このときのイチャイチャがあっさりなのもよく見ないとわかりません。ほとんどの人はニコール・キッドマンのお尻しか見てないので、トム・クルーズの動きには注目してないから)
暗転になる間際、ニコール・キッドマンは鏡の中に映る自分に不満足そうな顔をしているのが印象的です
つまり「私、本当にこれでいいの?」という不満足な顔。つまりマンネリ化してしまった夫婦の営みに退屈しているということ
大事なのはこの映画全体を通して、ニコール・キッドマンもトム・クルーズも別の人とセックスをしていないんです(ニコール・キッドマンと海軍士官のシーンは現実世界ではないということを強調するためモノクロで描かれている=ただの妄想)
つまり夫婦ともに相手を裏切っていないのであります
もちろん、トム・クルーズはこの映画でたくさんの誘惑に出会うわけですが、どれも未遂で終わっているのが重要なポイント
お互いに大事な一線は超えずに相手のところに戻ってきています
結局、夫婦がお互いに大切に想っているんですね
それがわかるのが最後に娘とクリスマスの買い物に行くシーン
ニコール・キッドマンが「きっと私たち感謝すべきなのよ。何とか無事にやり過ごすことができた。危険な冒険を・・・それが事実であれたとえ夢であれよ」というセリフでわかります
そしてトム・クルーズが「本当にそう思うかい?」ときき、ニコール・キッドマンが「本当に?わたしに分かるのはひと夜のことなんて、まして生涯のどんな事だって真実かどうか・・・」と言います。ここでなんとなく、ニコール・キッドマンの海軍士官の話は嘘だったのかなぁとわかるようになっています(夫に嫉妬させたくてついた嘘)
そして続くトム・クルーズの「夢もまた、すべて夢ではない」というセリフから夢というのはすべてただの嘘ではなくて隠れた願望があるんだろ?という妻への投げかけになっています
それを察したかのようなニコール・キッドマンの表情の演技が素晴らしいのでぜひこのラストシーンだけでも観てほしいです(夫婦は長くいると言葉に出さずに察してほしいという馴れ合いになってしまう。それがマンネリを生むことにつながる。それを表情でお芝居しています)
ニコール・キッドマンが言います「でも大切なのは今わたしたちは起きてる
。そしてこれからも目覚めていたい」
起きてる=もう夢の世界(つまり他の人との性交渉)なんか考えない
これからも目覚めていたい=あなたとの生活(性交渉)をしていきたい
トム・クルーズの「永遠に」と言ったことに対してニコール・キッドマンがクスッと笑って「永遠?」
トム・クルーズ「永遠」
そしてまたニコール・キッドマンが苦笑いをしながら首を振って「その言葉は嫌いよ。怖くなるの(結婚するときに永遠の愛を誓ったけど、今回マンネリが起きたから)でも、あなたを愛してる。だから、私たち大事なことをすぐにしなきゃダメ」
トム「何を?」
ニコール「ファック」
の後に暗転でスタッフロール
ここで大切なのはニコール・キッドマンのほうから誘っていることです
最初のパーティの夜はトム・クルーズの方からがっついていました
そして二人がケンカをする夜(ニコール・キッドマンがマリファナを吸ってる夜)もトム・クルーズのほうからがっついていたんですね
最後はニコール・キッドマンのほうからトム・クルーズに誘いをかけています
トム・クルーズ演じる主人公はたくさんの誘惑に負けずに貞操を守ったことで奥さんであるニコール・キッドマンから認められたということがわかるシーンになっています(ちょっと主人公のほうにご都合主義的なのは監督が男だからでしょう。これ、女性の監督だったらたぶん、最後は違ったラストシーンになる気がします。例えば、今はまだ結論が出せない、と言ってちょっとモヤっとさせる終わり方にする気がします)
スタンリー・キューブリック監督は難解だと思われてますが自分の意見に正直な人のようで、最後は奥さんから誘わせることで夫婦の愛が戻ったことをハッキリと表現したかったようです
ぼくが奥さんの立場で考えると、クリスマスシーズンに自分と娘を置いて(未遂だったにせよ)怪しい乱交パーティに出かけてる時点で気持ち悪いって思っちゃってこんなすぐには許せない気がしますが・・・
でもそれだとマンネリ夫婦の愛の再生までを描くにはもっと尺が必要になっていってしまうので、ここで一旦完結にしたかったんだと思います(無理やりに解釈すれば美人に散々粉かけられても自分のところに戻ってきたから旦那を許す心の広い奥さんなのかも)
これを大人気夫婦(私生活でも夫婦だった)トム・クルーズとニコール・キッドマンに演じさせるというところがすごいですね
スタンリー・キューブリック監督の遺作となった作品です(0号試写会の5日後に心臓発作で死去)
名監督の最後に撮った作品が夫婦の再生物語というのがなんだかホッコリする映画です
でもきっと世間では裸ばかり出てくるわけがわからない映画だと思っている人が大多数で、おまけにトム・クルーズとニコール・キッドマンも離婚しちゃってるし、残念な映画だと思われてる気がしてもったいないです
ありふれた(古臭い)テーマである夫婦再生という物語を中心に置きながら、遊び心たっぷりで罠を楽しそうに仕掛けている子どもっぽいスタンリー・キューブリック監督の笑顔が想像できるあったかい映画でした