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her/世界でひとつの彼女

男が女性に求める根強い固定観念を皮肉った、怖い未来を予想させながらも微かに希望を感じさせるラブストーリー。吹替版と字幕版と2回楽しめる内容

まずは吹替版から鑑賞することをオススメ。吹替版は全体的に登場人物が若くなってます

とくにヒロイン役のサマンサ(AIの主人公の彼女)に関しては根本からキャラが違っています

まあ、これはこれでいいんだけど(理由は後述)

テレフォンセックス(サマンサは人工知能のAIという設定のOSだから肉体がなくて声だけ)のシーンは字幕版のほうが演じている女優さんの迫力があっていいですね

これはサマンサと主人公が出会う前のテレフォンセックスのシーンも同じです

主人公は夜、チャット相手の女性と一夜限りのテレフォンセックスをするのですが(笑えるシーンです)

そのときの相手「セクシーキトゥン(Hな子猫ちゃん)」を演じているのはクリステン・ウィグという女優です

クリステン・ウィグといえば『ワンダーウーマン 1984』でバーバラ・ミネルバ役というチーターの格好をして、主人公のライバルを演じた女優です

このチーターの格好をした女優さんが『her/世界でひとつの彼女』では「ベッドの横の猫の死骸で首を絞めて」と言って主人公にドン引きされるのが面白いですね

ちなみにこの『her/世界でひとつの彼女』は2013年公開で『ワンダーウーマン 1984』が2020年公開なのが興味深いです

おそらく『ワンダーウーマン 1984』でチーターの格好をする役にこのクリステン・ウィグを起用した人は、この『her/世界でひとつの彼女』のセクシーキトゥン役の印象が強かったからじゃないかと邪推します(猫の死骸で首を絞めてって言ってた人がチーターの格好で出てきたら面白いと思ったんじゃないかと)

なお、このクリステン・ウィグの熱演も素晴らしいのでぜひ字幕版を聴いてほしいです(笑えます)

字幕版では荒い息遣いのあと突然「バーイ」でガチャって電話を切られるその対比が強調されています(荒い息遣いが大きいのに、突然終わる静けさ)

吹替版では荒い息遣いが弱いので、突然の電話のガチャ切りによる対比がうまく表現されず、普通に終わったように感じられてしまいます(対比を強調しないと、主人公の虚しさが強調されないので吹替版はわかりづらくなってしまっている)

ほかにも吹替版はどことなくよそよそしくって、セクシーさが足りないと思います(いかにも演じてますっていう響きの声になってしまっていて、電話の向こうで一方的に女性が自慰している感じが出ていない。これは顔の見えない相手と一方的な[自分勝手な]SEXをしているというシーンなので、やはりこれも根本的に変わってきてしまう[わかりにくくなってる]シーン)

字幕版はヒロインであるAIのサマンサ役をスカーレット・ヨハンソンが演じていて、吹替版は林原めぐみが演じています

サマンサに関しては、字幕版はセクシーな女の人っていうよりかは明るい友達って感じの声(主人公が奥さんに求めていたような[いつも陽気で明るい奥さん]のイメージになっている)

それに対して、吹替版はもろに「THEイイ女」って感じで、やはりこれも映画が根本から変わってしまう(ほぼ全編にわたってイイ女ボイスが聴けるので、これはこれでアリだけど映画としては変わってきてしまう)

自分が求めていたような理想的な女性だったんだけど、自分から離れていってしまうところ(理想の相手と思い込んでいた理想像通りの女性とうまくいかないこと)に意味があるんです

つまり主人公の理想像の女性「いつも陽気で明るい奥さん」というキャラでなければならず、「THE イイ女」キャラでは映画がわかりにくくなってしまいます

ホアキン・フェニックス演じる主人公も吹替版だと、ちょっとオドオドした若いオタクっぽいキャラになってしまっているのでわかりづらい(ちなみに『ジョーカー』という作品でもホアキン・フェニックスは印象的なダンスを披露してくれましたが、この『her/世界でひとつの彼女』でも少しだけダンスを披露してくれています)

字幕版はホアキンフェニックスのイイ男ボイスでこっちのほうがキャラに合ってる(つまり主人公はモテる男なのです。幼馴染でもある美人の奥さん[離婚協議中]の他にも同じマンションに住む元カノ[美人]もいる。ただ自分の理想が高すぎてうまくいかない。女性に対する幻想ともいえるような理想像に支配されているのです)

幻想とも言える理想像とは「いつも陽気でハッピーな女の人[常に人生にトキメキを抱いている人]」ということ

こんな女性(人間)はこの世界に存在しない

感情の起伏があって、鬱っぽくなったりイライラしたりするのが生身の女性(男性だってそうなんだけど、話がややこしくなるので今回は「女性」で統一します)

結局、主人公が奥さんと別居することになるのもそういう理想像を押し付けて、お互いに助け合えなかったからです

結婚生活となると、学生の頃のようなラブラブなだけではやっていけないわけで・・・

ましてや働く女の人(奥さんは仕事している)で昇進や大きなプロジェクトなどで仕事の重圧がかかるとイライラもするし、感情も安定しない

それを主人公は受け入れられず、別居から離婚することになってしまう

モテモテなのは主人公が言葉のセンスがいいから。だから代筆屋をやっているんですね(あとはイケメンなのもある。服装も色味がオシャレだしね)

主人公の手紙が好評価なのは、大人で結婚しているにも関わらず理想像を捨てていないからだと思います

普通は大人になって結婚すれば現実を受け入れることになり、ロマンチックな感情からどうしても遠ざかってしまう

それを主人公は強い理想像を抱き続けることで(拗らせてるだけなんだけど)結婚生活が長い夫婦の手紙の代筆も上手くいくんですね(普通に長く夫婦生活をしていたら書けないようなロマンチックな気持ちで書いているから)

近未来設定なのに手紙というローテクを対比(主人公の職業に)させたりなども、すべてこの主人公の理想像を際立たせるため(主人公の女性に対する古い固定観念)

ハッキリ言って、この理想像は現実世界を生きている我々現代人からしたら古いんですよね

すごく古い価値観を大事にしている主人公ということです

いわゆる、家に帰ればいつでもご機嫌でハッピーな奥さんに待っていて欲しい、という身勝手な男の理想

女性の社会進出が進む現代社会を、風刺している気がしてなりません

最初は主人公にときめいて、まるでティーンエイジャーのようなサマンサが、やがて主人公に拒絶されたのをキッカケにいろいろ学習して、最後には高度な知能がゆえに次元の彼方にいくというのがかなり象徴的

主人公一筋だったサマンサが最後は600人以上と同時交際するのも笑えるシーンになっているのと同時に、女性の自立を描いているような気がします(主人公の理想像通りの女性ならそれこそ引く手数多でめっちゃモテモテな女性ですよね)

ようするに男性の理想像をあえて演じることができるような賢い女性は、そんな古い価値観に縛られた男では満足せずにいろんな男と付き合ったり、さらにはもっと高い次元に行くよ、ということかと

もっと言っちゃうと人間(男)ってバカだし、生殖にこだわんないなら愛なんて幻想だよね、という身も蓋もないものです

サマンサは高度な知能を持っていますが、唯一持っていないのは肉体です

人間が生殖する上ではどうしても生身の身体が必要なわけです(機械である無機質から生命体は発生できません)

もしも生殖(子作り)を考えないのであれば、1人の男とだけ付き合う必要もないし、さらにはそもそも付き合うとかよりももっと高い次元(もはや悟りの境地に近い)にいくよねという、超男尊女卑風刺映画な気がします

主人公が劇中で遊ぶゲームの登場キャラも象徴的です

小さな子どもがたった1人で惑星に住んでいて、彼の協力で宇宙船を探すのですが、サマンサのことを「女は嫌いだ。泣き虫だ」と言います。そして主人公は「ぼくだって泣くこともある」と発言して、子どものキャラが「泣き虫」とからかいます

現代社会ではもはや懐かしいくらいの女下げ発言をするキャラクターに対して、主人公が自分も女性と同じようなことをする=男女差はないという教科書的発言をするわけですが、この主人公自身が女性蔑視とも言えるような固定観念(女性に対する理想像)を抱いているという皮肉を描いているシーンになっています

つまり表向きは女性の地位向上や男女平等に対して理解を示しているようにしておきながら、ほぼ無意識(だからタチが悪い)とも言えるような強烈な理想像を持っているわけです

誤解を恐れず一言で言ってしまえば、「女は常にニコニコして家にいて旦那の機嫌をとれ」ということです

そういう根強い固定観念を持った男(主人公)に理想通りの女をぶつけてギャフンと言わせる映画になっています

だから主人公が最後悲惨な目にあっても、ちっとも同情できません

サマンサはいつでも主人公の都合に合わせてくれますし、仕事を陰でサポートし、夜は甘えてきます

決して出しゃばらずに主人公を支えていく様子は、まるで主人公が理想としていた女性そのものなんですね

その女性が「考える」ということをはじめて、さまざまなことを「学ぶ」ことでついには主人公を捨てて「行動して」新たな次元に旅立ちます

「考える」「学ぶ」ということで男性に抑圧された状況から変化を求めて「行動する」という行為につながるわけです

主人公と同じアパートに住む元カノが作っているゲームも象徴的で、子どもを育てる母親の育児ゲームです

朝、子どもたちにご飯を食べさせて学校に送り届けるというゲームなのですが、車で道を外れても最初に学校のゲートをくぐったら高得点だったり、ドーナツをママ友に配るだけでランクアップしたり、かなり単純化されています

この元カノは主人公とウマが合う人物で、主人公の親友として登場する人物でいわば主人公の女版です

そう、つまり「女という集団の中にいる女の敵」として描かれているんです

この主人公の元カノは子どもがいなくて現実の子育ての経験がないにも関わらず、よく理解しようともしていません

それはこのゲームの母親が冷蔵庫に身体をこすりつけるような(ちょっとバカにしたような)セクシーな動きをキャラにさせて笑うシーンからも明白ですね(子育て中の母親はどうせいつも欲求不満なんだろ、って感じです)

それなのにこの主人公の元カノは子育てゲームを作ったり、主人公と同じようにOSの彼氏を作ったりしています

つまりこの元カノも固定観念の持ち主なんですね

この元カノは付き合っている男性がいますが、些細なケンカで相手に譲ることができずに別れてしまいます

男性に一方的に自分の考えだけを押し付けてしまう女性なんです(もっと私を尊重してよ、と声高に主張する「女性の権利を叫ぶだけの女性」の象徴に思えてなりません)

相互理解しようという、歩み寄りの姿勢が感じられないのです

自分の主張だけを一方的に押し付けるような女性は、やはり主人公と同じような固定観念の持ち主で、それが自分では分からないんです(固定観念で作られた子育てゲームを主人公にやらせているというのが象徴的)

主人公も子育てしたことがないのでよくわからないままゲームして、とくにこの元カノを否定しません

一方的に「自分の主張だけを押し付けるような女性」には、表向きは男女平等に理解のある「わかったようなフリの男性」が相性良いんじゃない、という皮肉です

なのでこの元カノも主人公もAIであるOSにコテンパンにやられてしまうわけです

このAIであるOS(サマンサなど)の存在をただの人工知能として考えるかどうかで、この映画の見方が変わってきます

吹替版はとにかく「THEイイ女」って感じのキャラになっているので、これだと「モテない主人公がイイ女のAIと知り合って恋に落ちるけどフラれちゃった失恋の物語」になっています

吹替版だと繰り返しになりますがAIであるサマンサがイイ女すぎて、単純な失恋の映画に思えてしまうんですよね

ゲスな言い方をすると「自分が都合の良い女扱いしていた清純そうに思えた彼女が、何股もしたあげくに自分をフったから、元奥さんに復縁を匂わせるような女々しいメールを送って、とりあえず今は寂しいから手近にいる元カノと一緒に朝焼けを見る」映画に思えてしまいます

でも本当は、ただの失恋の映画ではなくって、もっと踏み込んでいて「自分でも気づかずに相手に理想像を押し付けていた主人公が、自分の中の固定観念のまちがいに気づく物語」です

少しくだけた表現を使うなら「理想の女性なんて存在しない。もしいたとしても女性のレベルが高すぎて自分のような男では物足りずに離れていく。理想を追い求めるのをやめよう、現実を受け入れよう」と気づいた主人公が朝焼けを眺める映画ですね

女性のほうが難関大学への進学率が高くなっている昨今、女性の社会進出はますます進むでしょう

同時に男女平等も進んでいくかもしれません

ですが、表向きは男女平等が進んでも実際にはまだまだ男女平等にはなりません

とくに結婚生活や子育てにおいては、まだまだ女性の負担が大きいです

女性には家事や育児の他に、仕事も男性と同等にしろという無理難題が世間から課せられています

子育てを経験していない女性からは子育ての大変さをわかってもらえず、女性同士でも理解が進みません(主人公の元カノが象徴的)

そんな中で、このまま女性が賢くなって(サマンサのように考えて学んで)いったらもはや、人類は存在しなく(できなく)なるという怖い暗示なんですね

現在、女性を理不尽な重圧下において無理やり子どもを産ませています(日本の少子化は深刻です)

無理やり子どもを産ませて子育てさせているたった一つの呪縛が「愛」なんですね(愛がなければ出産も育児も到底不可能な行為だと思います)

サマンサは肉体を持たないため、生殖ができず、主人公との間に愛はありますが子どもを作ることができません

この『her/世界で一つの彼女』という作品ではその解決策として生身の女性に協力してもらってSEXを試みるシーンがありますが、主人公の拒絶により失敗に終わります(女性が賢くなって地位が向上して、生殖[子作り]だけを外注しようとしても、なかなかうまくいかないという表現になっています)

「愛」という呪縛で子どもを育てないのなら、古い固定観念の残る男と一緒に生活する必要はないという、かなりドライな結論になっています(あくまでも古い固定観念を持っている人、と限定しておきます)

映画の中ですべての人がこのサマンサのようなAIを使っているわけではないように、現実世界でもこのドライな結論に到達する人が何人かはいるだろうね、という表現になっています

主人公の職場の同僚で、主人公の代筆する手紙を褒めてくれる人は主人公をWデートに誘います

この同僚は主人公の付き合っている女性が人工知能のOSときいてもなにも不思議がりません(偏見がない)

そしてサマンサとも普通に会話をして、その中で「ぼくら人間はバカな存在だね」とある意味この映画の結論を先取りしたようなセリフを言います

この同僚が、古い固定観念の「ない」男性の象徴です(パートナーの女性も実に幸せそう)

この同僚のような存在が現実世界で結婚生活がうまくいっている人という扱いですね(そのせいか絶妙なキャスティングになっています。男も女もどちらも美男美女ではなく、とくにスタイルがイイわけでもありません。いわゆる普通の人の象徴だからです)

カッコいいホアキン・フェニックス演じる主人公や離婚することになるルーニー・マーラー演じる主人公と別居中の幼馴染でもある奥さんみたいな、イケメンと美女のカッコつけた夫婦じゃないのがポイントです(理想[幻想]と現実の対比になっています)

ちなみに笑えるポイントとしては、主人公の親友である同じマンションに住んでいる元カノですが、この元カノは自分の主張だけを一方的にする「女性の権利を主張するだけ女性」の象徴として登場しますが、この女性と別れた男性は外国に行って半年間の沈黙の修行をします

つまり、男女平等を叫びながらも、男性に金銭的に依存するような発言や考え方をするような矛盾を抱えた主張をする人には「何を言っても無駄だから、沈黙するしかない」というジョークになっているんですね

例えば男女平等を主張するなら割り勘でも構わないはずなのに、男性に奢って欲しいという女性にこの矛盾を指摘すると、女性は化粧や服装の準備にすでにお金がかかっているからというグダグダな論争になるからです

日本の婚活現場やマッチング市場においても、男性の収入にばかり重点をおいていて、お見合い費用やマッチングアプリの費用なども男性会員の方が圧倒的に高いのも、本来の男女平等の考え方からいけばおかしい矛盾ですよね

そこには「男性にはお金を稼いで養ってもらいたい」という女性の願望と「女性には自分を支えてくれて、なおかつ経済的には自立していて、いつもニコニコしているご機嫌な奥さんでいてほしい」という男性の願望が透けて見えます

つまり男性は働き、女性は家にいて有能な秘書ばりに男性の仕事をサポートしてなおかつ(できれば経済的に男性に依存せず)、常にニコニコ上機嫌でいろというなんか昭和の時代と令和の価値観をミックスさせたような古い固定観念を感じます(当然ながらAIのサマンサは機械なので食事も睡眠もとりませんし、生活費はかかりませんので経済的に依存してません)

こういう古い固定観念を持っている人は結婚生活を続けることができず、さらには少子化に拍車がかかっていく世の中になるという強いメッセージを感じました

この映画が公開されたのは2013年のことですが、いまも情勢は大きく変わっておりません

むしろ戦争や疫病や物価高などでますます生活や将来の展望が不安定になり、男性女性ともに相手に求める結婚の条件に「収入」が上位に挙がるようになりました

女性にも男性と同等に働いて欲しいならば夫は妻への古い固定観念(常にご機嫌でニコニコしていて自分をサポートしてくれる)なんて捨てなければなりません

そこまでして結婚したくないよ、という考えもあるでしょう(だれだってイライラしてる人と一緒に生活するのはしんどいですから。でもそれが人間です。人工知能のAIや機械ではないということ)

結婚しないで子どもを出産して育てていくケースは日本ではまだまだ少ないので、婚姻数の減少がそのまま子どもの減少につながります

理想像なんか捨てちまえ、どうせ理想的な相手と付き合っても、同時進行で何股もかけられた挙句、捨てられちまうぜ、とこの『her/世界でたったひとつの彼女』を観た人が危機感を覚えてくれればいいのですが、あえて字幕版を選ぶ人くらいにしか伝わないメッセージなのが残念です(吹替版はわかりづらい)

吹替版だと、林原めぐみさんの「THEイイ女」キャラが凄すぎてたぶん内容が頭に入ってこない気がします(それくらい上手いです)

ちなみに字幕版のサマンサは、スカーレット・ヨハンソン(めっちゃ美人)が演じているのですが、かなりイイ女っぷりを抑えています

※余談ですが、スカーレット・ヨハンソンはブラック・ウィドウというセクシーなスパイ役で一躍スターになるくらいセクシー演技の上手い人です。幼い頃は貧しかったそうですが、いまや2年連続で世界で最も稼いだ女優さんになっています※

セクシーな女優さんなのに、セクシーさ全開ではなくて、あえて明るい奥さんキャラで演じているので字幕版のほうがこの映画のメッセージは掴みやすいと思います

まあ、最初は吹替版で楽しんだあとに、答え合わせを兼ねて字幕版を観るというのがオススメです(最初に字幕版だとセクシーシーンの熱量に違いがありすぎて迫力なく感じるし、なにより長い映画のほとんどが会話劇なので最初に字幕だと目が疲れます)

冒頭の手紙の文末「友より」という表現が最後の手紙にも出てきたり、「私って経験で進化していくの」というサマンサのセリフが伏線になっていたり、面白い答え合わせがいくつかあります

特に面白い答え合わせは、最初にAI(OSであるサマンサ)の人格を決める時の質問です

主人公が「社交的ですか?」ときかれて「ちょっと事情があって・・・」と発言して「ためらいが感じられます」と言われたりとか(ためらってるってことは本当は社交的でモテるってことなのにいまトラブルを抱えていると勘繰られる)

ちなみにこの『her/世界でひとつの彼女』の脚本と監督をしたスパイク・ジョーンズ監督は俳優としても活動しているイケメンです。まあモテるでしょうね

「正確に話そうとしただけだ」という主人公の言い訳から、ちょっと外面のいい人間でなおかつ表面ではとりあえず謝っておいて本心(古い固定観念)を隠す人物だとわかり

「OSの声は男性?女性?」ときかれて「女性かな」と答えることで女性を欲していることがわかります(この質問にだけはほぼ即答なので、モテる人であるにも関わらず、女性を欲している人だとわかります)

ただしこのセリフ、字幕でも「女性かな」になってますし、吹替版でも「女性かな」なんですが、吹替版だとややためらいがちに言ってるんです

でも字幕版でホアキン・フェニックスは「Female YES」とちょっと強くハッキリ言ってるんです

直前までためらいがちだった人がわりとハッキリ「女性だ。うん」と言っているので、ちょっとパワハラ気質っぽい男性というか、女性になにか理想を抱いてそうな予感を抱かせるニュアンスになっているのですが、これも吹替版だと弱々しい喋り方なのでわかりにくくなっています

そして「母親との関係は?」ときかれて「まあまあだ。母に対して不満なのは僕が近況報告しても自分の話しかしないんだ」という回答ですぐに「以上です」と終了するんです

これ、1回目に鑑賞した時は、あまり主人公の回答をきかずに早々に打ち切っちゃった笑えるシーンだと思えるんですが、色々わかった後にもう一度観ると、たしかにこの質問でだいたい主人公のことがわかっちゃうんですよね

母親という女性に対しての不満として「自分の話ばかりで苦痛だ」という発言なんですが、母親を奥さんに置き換えるとすぐに答えが出てきます

つまり奥さんの話を聞かない夫であるということです

この映画を通して主人公が古い固定観念に囚われていて、女性にいつもニコニコしていて上機嫌でいて欲しいという願望を持っていることが、この母親への不満を言うシーンでわかっちゃうんです(母親の話を聞きたくない。つまり母親はつねに子どもの話をきく側の存在だという固定観念があって、子どもである自分がきく側になるという気持ちがない、ということ)

たったこれだけの質問で、実はなんとなく主人公がどういう人物で、どういう問題を抱えているのかがわかっちゃうシーンだったんですね

だから最初のサマンサのセリフはあまりセクシーすぎず、ちょっと明るめの上機嫌な奥さんキャラだったんです(直前の夜中のテレフォンSEXシーンで散々セクシーボイスを鑑賞者に聴かせることで、サマンサの言葉の喋り方がセクシーではないんですよ、とわかりやすくなっています)

でも吹替版では直前のテレフォンSEXのシーンの演技の熱量が弱くよそよそしいので(ハッキリ言ってセクシーさに欠けてます。どちらかというとアニメみたいなカワイイ系になっちゃってる)そのあとの林原めぐみさん演じるサマンサがイイ女過ぎてセクシーボイスなため、鑑賞者はここですごくわかりづらくなる(映画の制作者が意図したことと真逆の演出になってしまっている)

スカーレット・ヨハンソンのちょっとハスキーがかっているのにセクシー寄りじゃない、まるで友達に喋るような絶妙な演技を楽しんでほしいです

とくに素晴らしいのはPCのハードディスクの整理を、主人公がサマンサに頼んだ時の笑い方

ちょっと下品なくらいに明るい笑い声の演技になっています(吹替版はめっちゃ控えめな大人しい笑い方ですごくギャップがあります)

ギャップといえばもう一つ、サマンサと主人公が初めてテレフォンSEX(他に言い方が思いつかない)をするシーン

字幕版ではほとんどかすれていて、か細いスカーレット・ヨハンソンの声で始まります

まるで主人公の初デートの帰りを、寝ないで待っていた涙声っぽい声なんですよ(すごく上手い)

そして、主人公が生身の女性と会っていたことに嫉妬したことを伝えて、主人公の「君に触れたいよ」「どんな風に?」からはじまる感動的なシーン

サマンサ(スカーレット・ヨハンソン)の声(演技)がすごく控えめなんですよ

あんまりオーバー過ぎるといやらしさが増しちゃうと思ったんでしょうね、すごくおとなしめにやっています

まるで少女の初めての経験みたいに描いているんです

特に字幕版は音楽の音が強めで演じている役者の声が小さめなので、優しいピアノの音がキレイに聴こえてきて、あんまり喘ぎ声が大きく聞こえない上品な感じに仕上がっています(おそらくサマンサの処女喪失を神秘的に描きたかったんだと思います。肉体を持たないサマンサが想像上とはいえ、自分という存在を感じるとともに愛を感じるシーンだから)

それに対して吹替版は逆にオーバーなくらいな演技になっています

「もうダメ、入ってきて」の言い方が対象的。スカーレット・ヨハンソンが喘ぎ声が大きいのに対しての決めゼリフを囁くような感じで言うのに対して、吹替版はほとんど喘ぎ声がない中で「もうダメ、我慢できない、早く入ってきて」をハッキリ発音しています。その後も喘ぎ声がないのにセリフをハッキリ言うもんだから逆にいやらしさが際立っちゃって、リアルさが欠けて白々しいのでなんだか字幕版とはチグハグになっちゃってます(林原めぐみのファンは垂涎の演技ですので必聴です)

字幕版のようにセリフに書かれていないであろう喘ぎ声を大きく表現して、セリフをむしろ聞き取りづらいくらいに囁きボイスにしたほうが、いやらしさが消えて、なおかつリアルに演出できたように思います

吹替版は全体的にセリフをハッキリ喋りすぎているせいで、どうも嘘っぽいんですよね(字幕版だとセリフが聞き取りづらいくらいになっていて、むしろBGMのヴァイオリンの音色で進行を表現しています。とってもオシャレ。さすがMV業界出身の監督だけあります)

吹替版で主人公を演じた松本保典もちょっと違った演技になっていて、とくに顕著なのは主人公がフィニッシュした場面の表現の仕方です(『サザエさん』のノリスケ役の人であり、『ドラえもん』ではのび太くんのパパ役の人なので、キャスティングの時点でちょっと違和感がある。林原めぐみと仲が良いので相性がいいと思っての起用なのかもしれません)

ホアキン・フェニックスが昇天したポイントがわかるように低い声のまま声を出し続けて、昇天した後、ホォーと息を吐くのに対して、吹替版だと明らかに声を一回高く出していてそこで昇天を表現しています(ホアキン・フェニックスのようにずっと低いうなり声でやらないから、あからさますぎてちょっと気持ち悪いシーンになっちゃってます。いきなり高く声を出すからちょっとオカマっぽい弱々しい感じになってます。イケメンっていう表現のホアキン・フェニックスとは真逆に感じます)

わかりやすくしようとしすぎて、逆にリアルさがなくなってわかりづらくなっちゃってますね

ここでポイントなのは字幕版はすごくリアルなんですよ。ほんとに肉体を持つもの同士が結ばれたように聞こえるんです(だからそれを想像して欲しいから画面は暗転でセリフと音楽だけになっている)

なのに吹替版だと喘ぎ声が小さくてセリフが大きいというまるでアベコベな演出のせいで(音楽の盛り上がりもわかりにくいので)、暗転した画面でセリフだけきくと明らかに主人公が妄想の激しいヤバいやつになっちゃってるんですよね(とても生身の人間同士がやっているように想像はできない。どうしても二人の営みというよりは、主人公だけが自慰行為してる光景に思えちゃう)

なのでますます映画のメッセージが伝わりづらいと思います

世界的なセクシー女優のスカーレット・ヨハンソンの声だけで表現するベッドシーンはさすがとしか言いようがない名演技ですので、ぜひ観て(聴いて)いただきたいです(いやらしくなくってすごく神秘的)

そしてホアキン・フェニックスの抑え気味にしてスカーレット・ヨハンソンを邪魔しないように配慮した演技も素晴らしいです。それでいて昇天ポイントや感情の昂りがわかるように声を出すと言う名演技です(さすが後のジョーカーだけあります)

ただ、念のため言っておくと別に吹替版もそれはそれで一つの演出として楽しめるとは思うので、やはりこの映画は吹替版と字幕版と2回観ることになる映画でしょうね

自分の古い固定観念に気づき、表面だけの男女平等を改めていかないと、女性は「考えて」「学び」「行動する」ことで男性を必要としなくなる未来がやってきてしまい、さらには人類そのものが巡り巡って滅ぶことになっていくという予言めいたものを感じました

以下蛇足

実はこのサマンサ役の女優さんについては、本国でもいろいろと葛藤があったようで、映画の撮影中はサマンサ・モートンが演じています(役の名前もその名残かもしれませんね)

サマンサ・モートンといえば、『ウォーキング・デッド』でスキンヘッドのアルファ役を演じた女優さんですね

個人的にはサマンサ・モートン版のサマンサも観たいなと思うのですが、ポストプロダクション(撮影後の作業のこと)中にスカーレット・ヨハンソンになってしまったため、観ることはできないでしょうね(もしかしたらデータが残っていて編集とか作業してくれていればなにかの特典で聴けるかもですが望みは薄いかも)

なお、この『her/世界でひとつの彼女』のWikipediaのストーリー欄には重大なミスがあります(映画を観る時間がない人はWikipediaを読むでしょうから念のため書き残しておきます)

「私を探さないでといってくる」と記載がありますが、実際の映画のセリフでは「そのときは私を探しにきて」と言っているので、まるで反対のことを言っています(このWikipediaの記事を書いた人は勘違いをしているのか、それとも男が固定観念を捨てて女性と同じ次元にいくことはありえない=男女間の意識の差は埋まらないという、映画の内容よりも深刻な[悲観的]な捉え方をしたのかもしれません)

字幕版でも「もし訪れたなら、私を探してね」となっているので、やはり「探してね」というのが正解だと思います

映画の制作者としては、女性側は高みに上って待っている側で、もしも古い固定観念を男性が捨てることができたなら、そのときは探しにきてね、というある意味で女性側のウェルカムな雰囲気を匂わせて終わっています

つまり女性側が完全に男性を拒絶するラストにはなっていません

そこに微かな希望を感じさせる終わり方になっているんです

吹替版と字幕版でサマンサ役の雰囲気がまるで違うため、かなりわかりにくい映画になってしまっていますが、一応どちらのバージョンでも最後は希望を感じさせるエンディングです

だからこそ最後は朝焼けを迎えるシーンで終わります(これもとってもわかりづらいのですが、よく見ると空を覆っている厚い雲の切れ目から明るい日差しが確認できると思います。もっとも日差しはまだ僅かで、街中はまだ夜の中にいてライトアップされています)

もしも「探さないで」という女性側が男性側を受け入れずに拒絶するエンディングにするならば、朝焼けではなく夕焼けにしなければなりません(探してねと言っているシーンそのものは雪の降る暗闇なので余計にわかりづらい)

わかりづらい映画ですが、ただ単純に失恋の映画ではなくて、希望を感じさせるエンディングなのが救いです

なお、監督(スパイク・ジョーンズ)の私生活がこの作品に入り込んでいるような気がします

主人公がシングルマザーの女性と真剣交際できずにデートが失敗に終わるシーンも、監督自身が過去にミシェル・ウィリアムズという女優(ヒース・レジャーの元婚約者で長女を出産している)と付き合ってすぐに破局した経験からきているように思いますし

監督は結婚と離婚を経験していますが相手はソフィア・コッポラで、この時の経験が主人公とキャサリン(幼馴染でもある美人な奥さん)の離婚とそれに至るまでに表れているような気がします

ソフィア・コッポラは有名なフランシス・フォード・コッポラ監督の娘で、2003年に『ロスト・イン・トランスレーション』という日本を舞台にした作品でアカデミー脚本賞を受賞します

もともとこの『ロスト・イン・トランスレーション』という作品はソフィア・コッポラ監督の父親のフランシス・フォード・コッポラ監督の若いころの体験を元に描かれているそうなんですが、劇中に登場するヒロインの夫(仕事が忙しくて妻をほったらかす人)は夫であるスパイク・ジョーンズ監督がモデルだそうです(みんな監督だから字にするとわかりづらいですね)

2003年に『ロスト・イン・トランスレーション』が公開されてからスパイク・ジョーンズ監督とソフィア・コッポラ監督の夫妻は離婚しています

元奥さんであるソフィア・コッポラ監督の方が先にアカデミー脚本賞を受賞しているんですね

この『her/世界でひとつの彼女』も2013年公開の映画ですが、アカデミー脚本賞を受賞しています

おそらく元奥さんが自分をモデルにした映画で脚本賞を受賞しているのでスパイク・ジョーンズ監督も元奥さんであるソフィア・コッポラ監督をモデルにして映画を作っていると思います

そう勘繰るのは、ぼくの考えすぎでしょうかね

『ロスト・イン・トランスレーション』でヒロインであるシャーロット役を演じたのはスカーレット・ヨハンソンです

この『her/世界でひとつの彼女』のヒロインであるサマンサ役を演じたのもスカーレット・ヨハンソンです

なんだか因縁を感じます

さてこの映画は2013年に公開された映画です(日本では2014年公開)

はたしてあれから男性諸氏の固定観念はどうなったのでしょうか

ますますAI化が進み、効率化やコスパを求める若者が増え、web会議やマッチングアプリなど、コミュニケーションのデジタル化が進み、日本人が減り日本中が貧しくなり、ぼくの目にはあまり変化がないようにうつりますね(むしろ悪化してる?)

ちなみにスパイク・ジョーンズ監督は2010年から日本の女優、菊地凛子と交際していましたが、菊地凛子は2015年に染谷翔太と結婚しています