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ヒューゴの不思議な発明

映画好きによる映画好きのための映画

それにしてもやり方が本当に上品

映画好きのための映画にするなら映画制作の舞台裏とか撮影風景とか実際に映画を作るまでのあれこれなんかをパッと思い浮かべがちです(実際鑑賞者のほとんどは一般庶民であって映画作りなんて携わったことないのでむしろウケがいい=興行収入に繋がりそうです)

なのに直接的な表現を避けています(この『ヒューゴ』という映画は映画作りをする物語ではありません)

それなのに映画についてこれほどまで表現している作品はとても情熱的です

映像に映っているものから鑑賞者に訴えるという手法はまさに映画ならではの手法であって、やはりこだわりを感じます

この『ヒューゴ』という映画では機械式時計が頻繁に出てきます

さらに言うと歯車が回る場面が意図的に多く映っています(例えば汽車の車輪が回転するのもその表現の一つです)

それはつまり映写機がフィルムを回すのに似ています

歯車はどれが欠けても機械は動かないわけで、どんなに小さな存在(部品)であってもすべて存在自体に意味がある=役割があるんですね

ちっぽけな存在(人間)に思えてもその存在が別の存在(人間)に大きな影響を与えることがあるんだよ、というメッセージになっています

それが直接明かされるのは映画が始まって90分ほど経った頃なので、この映画は本当に一見さんお断りみたいな映画ですね(CGで面白くして一生懸命敷居を低くしようとがんばっていますが、いかんせんやってることが高度すぎてボーッと観てると伝わらないんですよ)

主人公のヒューゴ少年がヒロインのイザベルと一緒に映画アカデミーの教授とパパ・ジョルジュの家に行くところです

この映画アカデミーの教授は小さい頃にパパ・ジョルジュの撮影現場を見学したことがキッカケで、大人になった今では映画アカデミーの教授になり著書もある立派な人物へと成長しています

この映画アカデミーの教授が尊敬している人物がパパ・ジョルジュであり、500本作った映画のうち、唯一残っているたった一本のフィルムを持参して上映会をするんです

ここが本当にいいシーンなんですよ

映写機を教授がずっと手で回すんですけど(上映中はずっと手回しし続けなければならない。一定速度で回し続けないと映像のテンポがおかしくなるので技術が必要ですね。なお、当然ながら無声映画です)けど、映写機のカタカタカタという音がすごく良いんです

この音を聞いてたらジーンときました(ね、わかる人にはわかる映画なんですけど万人ウケはしない映画です)

今ではパソコン制御で自動ですけど、昔は上映するのも人の手がかかっていたんですよね

昔の自分を忘れようとしてきたパパ・ジョルジュがこの映写機の音を聞きつけて病床から抜け出してきていて、部屋の後ろのドアのそばでそっと自分の作品を観ているんですよ

「今でも映写機の音はどこにいてもすぐにわかる」っていうセリフがグッときます

そしてそこから続くパパ・ジョルジュの半生がもうジーンときますね

人生をかけて映画を作ってきたのに人々に飽きられてしまって、時代の潮流に乗れずに結局映画作りを辞めてしまうところとか

結局経済的に苦しくなってフィルムを全部売ってしまって、そしてそのフィルムが溶かされてハイヒールの踵に作り変えられるあたりはもう切なくなります(だから500本も映画を作ったのに残ってない)

※史実としては第一世界大戦で使われる軍靴の踵に使われたんですけど、女性の足元を映してからパパ・ジョルジュの玩具屋へとカメラが持ち上がるところが切なくていいですね(この時のBGMはサティのグノシエンヌ第一番です。サティもフランス人であり音楽会の異端児的存在だからこその選曲に思いますね)

回想シーンが終わった後の現代のパパ・ジョルジュのカメラ目線のカットに繋ぐ時にディゾルブ(直前のカットを幻影のように残しつつ次のカットに繋ぐ)を使っているのもポイントです

パパ・ジョルジュはジョルジュ・メリエスという実在した映画監督がモデルとなっていますが、ジョルジュ・メリエスがディゾルブの技術を作りました

すべてを語り終わったあとの「ハッピーエンドは映画の中にしかないんだ」というセリフがグッときますねえ

このディゾルブのカメラ目線でカットを繋ぐシーンは以前にも登場していて、それは主人公のヒューゴが父親から機械式人形を紹介されたときです

父親が博物館の倉庫で機械式人形を見つけて主人公に紹介する場面で、現在の主人公が機械式人形を見つめて過去の機械式人形へとカットが変わるシーンなんですが、現在の機械式人形は裸なのですが、父親が博物館で見つけたときはボロいですけど服を着ているんですよね

壊れているけれどもそれを直してくれる存在と出会った機械式人形の場面でカメラ目線のディゾルブが使われています

つまりパパ・ジョルジュも同じようにカメラ目線のディゾルブでカットを繋ぐことによって、直して(治して)くれる存在が見つかったことを暗示しているんです

セリフとしては「ハッピーエンドは映画の中にしかないんだ」という内容なので暗いですが、それを直して(治して)くれる存在を暗示しているのでパパ・ジョルジュ(ジョルジュ・メリエス)の心を直して(治して)くれる存在=主人公のことを表現しています

つまりこの時点でこの『ヒューゴ』という映画はハッピーエンドが約束されているわけです

なのでこのあとはとても落ち着いて鑑賞することができるようになっています

機械式人形の最後に必要なものがハート型の鍵だったように、だれかの熱い心がパパ・ジョルジュ(ジョルジュ・メリエス)を動かしていくという表現がとても小粋だと思います(なのでただの鍵ではなく、ハート型の鍵でなければならないんですね)

主人公のヒューゴの服とヒロインのイザベルが首から下げているハートの鍵の紐の色が似ているところもポイントです

二人の出会いが運命的であったことを象徴していてとてもいいですね

灯りなど暖色系に対してよく目立つように主人公のヒューゴの目の色が鮮やかな青色だったり、鉄道保安係の制服が青になっていて、画面全体から自然と目線の誘導ができるように計算されているのも素晴らしいです(特にヒューゴと鉄道保安係は追いかけっこをよくするので、駅の群衆の中でもそれとなく目立つようになっているのがポイントです)

機械式時計の歯車の回転が映写機の回転の表現と重なり、人の時間の流れを表現しているのがオシャレです

つまり時計も映画も人の営みに似ているということなんですね

使っていくうちに壊れたり錆びついちゃったりすることもあるけど、誰かが直したり引き継いだりして受け継がれていくものがあるという愛情のこもったメッセージになっています(映写機を手回しするのも、機械式時計を手回しするのもとにかく回すということを意識している映画です)

時計を駅の時計にしているのがちょっと面白いですよね

なぜなら駅の時計って多くの人に見られていて、ないと困っちゃう存在だから映画も多くの人に見てもらえて、無いと困っちゃう存在にしているところが面白いですよね(この『ヒューゴ』という映画をたくさんの人に観てもらいたいっていう願望が感じられます)

駅はたくさんの人が集まる場所だから映画がたくさんの人の人生に影響を与える(映画もたくさんの人に夢を与える)という意味で被せたのかなって気はします

そして機械のいいところは直せることです

あのね、これ売り方が間違ってます

ボーイミーツガールの冒険ものだと思ったら大間違い

ものすごくこりにこったオヤジ(というか白いヒゲの似合う初老)向けの映画になってます

例えるなら、流行のスイーツを食べに行ったら出てきたのがこの道40年の熟練職人の手打ちそばが出てきちゃったみたいな感じです

気楽に観ようなんて思うとまったくもって退屈な映画になります

リュミエール兄弟ってだれ?とか月世界旅行ってなに?なんてレベルでこの映画を観ちゃうとまったくもって面白さが伝わってこないです

リュミエール兄弟は世界初の実写商業映画を作った人物。スクリーンに上映して一度にたくさんの人が鑑賞できるようにしました。そして日本を含む世界中にカメラマンを派遣して映像を記録しました。いわゆるドキュメンタリー映画の元祖。

ちなみにエジソンが作ったキネトスコープという映画鑑賞装置は覗き穴から映画を鑑賞するものなので一度に一人しか鑑賞できませんでした

月世界旅行はジョルジュ・メリエスの代表作品であり、世界初のSF映画です

原作はジューヌベルヌの月世界旅行です。主演もジョルジュ・メリエスです。マジックの手法を取り入れていて、敵をやっつける時に煙がボンッと立ち上がって敵が消える演出は今日でも見受けられます(例えば仮面ライダーや戦隊ヒーローもので敵をやっつける時に火花と煙が上がったり、ゲームで敵をやっつける時にボンッと煙と共に消えたりしますが、ぼくの知る限り月世界旅行が最初の演出です)

月が人面になっていて目にロケットが刺さるシーンはあまりにも有名です

主人公である教授(ジョルジュ・メリエス)がみんなを逃すために殿を務めて敵を食い止めたり「先に行け!」、ロケットを動かすために最後一人だけ外に残ったり「おれに構うな。お前らだけで脱出しろ」など、物語性としても今日まで受け継がれる要素を多く含んでいます(セリフは和田昌俊の個人的な妄想です)

月世界のキノコの描写は宮崎駿の『ナウシカ』の腐海やジェームズキャメロンの『アバター』の世界観に似ています

ですが、月世界旅行という作品を知らないでこの『ヒューゴ』という作品を観てもつまらない、というか映画にそこまで興味ない人からしたらなんのこっちゃですよね

お蕎麦にこだわりのない人に「うちは石臼で挽いた蕎麦粉を使用している」とか「うちの出汁はうるめ鰯を使ってる」なんて言われてもピンとこないのと同じです

こだわりのわかる人=好きな人はとことん好きになっちゃう映画です

他にもジュール・ベルヌとかジャンバルジャンとかダグラス・フェアバンクスとかがセリフで出てくるのでそれらがわかっていると楽しめますが、わからないと途端に「何言ってんの?」となってしまって良さがちっとも伝わってきません(映画だけじゃなくて世界文学の知識まで求められるので、だれか解説者がいないと疲れる映画になっちゃいますね。逆にそれらがわかる人だと2倍3倍と面白さが増幅する教養レベル判定映画です)

映画と文学と第一次世界大戦の知識がないと楽しめないというかなり人を選ぶセリフ選びになっていて、この部分がこの『ヒューゴ』という映画の敷居を高くしてしまっている部分です(そのかわりにわかり人にはすごく小粋なセリフとなっているので面白いです)

例えば鉄道保安係と花屋の看板娘との会話シーン

鉄道保安係は恋しているのですが足が不自由なため肝心なところでうまく気持ちを伝えられません(時々足につけている部品が音を立ててしまう)

「戦争でやられましてね、これはもう治らないんです。ではお邪魔しました」

「兄は戦死したんです」

「どこで?」

「ヴェルダンで」

そこで心が打ち解けあい、花屋の看板娘がお花を鉄道保安係の胸に挿します

ヴェルダンの戦いは第一次世界大戦での消耗線でフランス側だけでも36万人以上の死傷者が出ています

他にもヒロインのイザベルがヒューゴの住まいに向かう狭い通路を一緒に歩いている時「素敵な場所ね、まるでジャンバルジャンみたい」(イザベルは冒険に憧れがあるので悪気はないんです)

鉄道保安係が浮浪児引き取り担当の警察官とするやりとりは終始お笑い要素をいれてきます

例えば警察官から、女房が3ヶ月前に家を出て行ってしまったんだと告げられるシーン

「おれの子かな?」

「は?」

「わからないんだ。女房が妊娠した」「あなたの子を?」

「他に誰かいるか?」

「もちろん、あなたの子だ。奥さんと最後に寝たのは?去年のいつかですか?」

「いや去年はないな」

「だったら怪しいですね」

警察官から「女房を見つけたら頼む」と言われて奥さんの写真を見せられます

そして鉄道保安係が言います

「・・・もどってきて欲しいんですか?」(つまりかなり見た目がひどいということ)

他にも、主人公を捕まえて浮浪児として引き渡したいという電話をかけるシーンでは、警察官から奥さんがやっと戻ってきたと言われてお腹の子どもに対して

「まあ7ヶ月後には判明しますよ。・・・えっ、3ヶ月後?」(つまり家を出て行く前から奥さんは別の男と不倫していたことがわかる)

「えっ、私が名付け親に?いやしかしそんな・・・」(鉄道保安係はこの警察官の子どもじゃないと気づいているので微妙な反応をする)

これらをすべて会話だけで笑わせてくるのがオシャレです

でもよくきいてないと(文脈を理解しないと)わからないことなのでボーッと観ているとなにが笑えるところなのかちっともわからない、ということになりかねません

この警察官と鉄道保安係との会話でもわかるようにこの『ヒューゴ』という作品は決して子ども向けのファンタジー冒険映画ではないことがわかります(にも関わらずあらすじや宣伝の仕方がいかにも少年少女の冒険ファンタジーっぽい書き方なので多くの人が肩透かしをくらってしまうと思います)

おそらく、ヒューゴー・ガーンズバックというSF作家からもじってつけていると思われます

SFの賞で有名なヒューゴー賞はこの人物の名前にちなんでいるくらいSF作家として有名な人物です

ジュール・ベルヌの作品が劇中に出てくるくらいなので、このお話の原案を考えた人物はSFの始祖であるヒューゴー・ガーンズバックを主人公の名前として起用したんだと思います

もう一人のSFの始祖であるH.G.ウェルズがなにも触れられていないのが少し疑問ではありますけど

映画の最初のシーンも歯車からパリの夜景に切り替わるのですが、それがすでに象徴的です

歯車=人の営みがパリに生きる人々の一人一人の存在の象徴なんですね

だからこそ映画の後半の追いかけっこが始まるときもカフェのマダムオーナーと新聞屋のオヤジが犬を通してくっついて、その犬が主人公を見つけてしまうという一連の流れがすんなり受け入れられるようになっています

なぜならそれぞれの人の営みが絡み合って他の人の人生に影響を与えているシーンだからです

こういう伏線回収は他にもあって

例えば追いかけっこの末に主人公のヒューゴが時計台から外に出て時計の針に捕まって逃げようとするシーンです

ヒロインのイザベルと映画館に忍び込んで観た映画で同じようなシーンが出てきてました

こうしてさりげなく伏線を回収することで歯車同士=人生同士が影響しあっているというメッセージを伝えています

歯車からパリの俯瞰の風景へ、そして鉄道の駅の中までをCGを駆使しながらワンカットで映していく冒頭のシーン

さりげなく新聞屋のオヤジやカフェのマダムや花屋の看板娘を強調していて(やりすぎない程度に)自然と記憶に残るようになっています

それでいて、なんとなく20世紀初頭っぽいなあという雰囲気(特にカフェの感じや人々の服装や汽車の感じ)にしているのがオシャレです

鉄道保安係が初登場するシーンでも足に保護具をつけているのでなんとなく第一次世界大戦でやられたのかなとわかるようになっています(戦争で負傷した帰還兵がまだ現役で保安係をやっているということは戦争後何十年も経っているわけではなさそうなので、おそらく第二次世界大戦が始まる前かなあと予想がつくようになっています)

ここもただボーッとしているとただの風景だなで終わってしまう

マーティン・スコセッシ監督は『タクシードライバー』や『シャッターアイランド』などの精神イッちゃってる系イメージが強く、そう言う意味では彼の中では十分子ども向けなんだと思います(映画に傾倒しすぎて精神イッちゃってる系とも考えられますけど)

なのでそういう意味ではマーティン・スコセッシ監督としてはファンタジー寄りの少年少女冒険ものなんでしょうね

でも語っていることがオタクすぎて好きじゃない人にはとことんハマらない内容なのでおそらくマーティンスコセッシ監督のお子さんもつまんない思いをしてるんじゃないかなと心配です(子どもの頃にこれを見せられてもつまんないと思います。ある程度人生経験を積まないと良さがわからない映画なので)

だって子どもは飽きっぽいので2時間6分もある映画をじっくり観ることなんて無理だと思います

おまけにじっくり観ないと良さがわからないですし

その証拠にじっくり観ている人にはクスッと笑えるご褒美があって、カメラマンとしてマーティン・スコセッシ監督がちょろっとだけ出演しています

パパ・ジョルジュの回想シーンで全財産を注ぎ込んで作ったガラス張りのスタジオの前で記念写真を撮るシーンがあるんですが、この記念写真を撮るカメラマンがマーティン・スコセッシ監督です

もしも子どもに見せるためにこの映画を作っていたとしたら「パパがどこに映ってたかわかるかい?」と質問するためかなぁなんて推察しますね(こたえられなかったらこの映画をじっくり観てないってことだとわかってしまいますから)

このパパ・ジョルジュというキャラクターは実在した映画監督のジョルジュ・メリエスのことなんですが、ジョルジュ・メリエスのスタジオ完成の記念写真をマーティン・スコセッシ監督が撮るというのが象徴的です

この『ヒューゴ』という映画は少年少女の冒険ファンタジーではなく、正直な話、ジョルジュ・メリエスという映画監督の晩年を描いた哀愁漂う映画なんです

そのジョルジュ・メリエスの映画を撮る(スタジオの記念写真を撮る)という意味で、マーティン・スコセッシ監督のリスペクトがうかがえます

普通はカメラマンを映さずに記念写真のフラッシュを焚いてすぐに次のカットに映りますが、フラッシュを焚かないでカメラマン[マーティン・スコセッシ監督]の笑顔を映しています。映画としてはわざわざここで記念写真を撮るカメラマンを映す必要はないので(とくに重要人物ではないのに画面に一人だけで映っているメインキャスト級の映り込みになっている)余計な[ムダな]カットになっているのがわかるはずです(つまりあえて違和感を感じるようにカメラマンのカットを入れている)じっくり観ていればこれがマーティン・スコセッシ監督だと気づく仕掛けになっています

時間にしてたった2秒くらいで映画としては1時間36分後あたりですけど確信犯的なカットに思います

マーティン・スコセッシ監督がジョルジュ・メリエス監督をリスペクトしていると感じられる部分は他にもあって、この『ヒューゴ』という映画はマーティン・スコセッシ監督初の3D映画となっています

それまでフィルム撮影にこだわっていたくせになんでだろうと思ったら、ジョルジュ・メリエス監督自身がSFXの創始者だからなんですね(この『ヒューゴ』がジョルジュ・メリエス監督について描いていたことを鑑賞するまでぼくは知らなかったので、なんでスコセッシ監督はきゅうに3Dで撮ったんだろうと疑問に思っていました)

多重露光や低速度撮影やディゾルブやストップ・トリックなんかの技法を生み出したジョルジュ・メリエス監督にリスペクトして現代SFXの3D撮影に踏み切ったんじゃないかなと思います

この『ヒューゴ』でもたびたび登場する『月世界旅行』は上述したように実在の映画です(弾丸が刺さる月の顔はジョルジュ・メリエス監督自らが演じています)

他にも実在の映画の場面をたくさん挟み込んでくるのですが、知らない人からすると「これなに?突然クオリティ低い映像が流れるんだけど」となってしまうでしょうね

実在の人物で実際に作られた映画なんですよ、ということがわかっているかいないかだけでこの『ヒューゴ』という映画の面白さがまるで変わってきてしまいます

リュミエール兄弟の作った『工場の出勤』や『汽車の到着』なども実際の映像が流れますし、とくに『汽車の到着』で観客が席を立って逃げようとしたエピソードも実際にあったことです

おまけにジョルジュ・メリエス監督のガラス張りのスタジオも実在したものですし晩年やけになってセットや衣装を焼いちゃった話も事実です

感心したのはガラス張りのスタジオの再現度です

ぼくは写真でした見たことがなかったのですが、本当によく再現されていてすごかったですね

なんていうか、ジブリ作品を知っている人はジブリ美術館を楽しめると思うんですけど、ジブリ作品を観たことがない人がジブリ美術館行っても楽しめないように、ジョルジュ・メリエス監督を一切知らない人がガラス張りのスタジオを見てもなにも感動しないと思うんですよね

ここにこの映画の弱点がある気がします

たぶん、一般ウケはしない映画で、興行収入も散々な結果になったと思うんですけど(約80億円の赤字だそうです)それでもこの『ヒューゴ』は間違いなくいい映画なんです

でもいい映画が必ずしも数字(収入面)で認められるかというと。そうじゃないのが映画なんですよね

そういう意味で儲からないという結果が見えている負け戦な気がするんですけど、よくぞこの映画を作ってくれたなあって思います

晩年のジョルジュ・メリエス監督も貧乏になっちゃって、他の映画監督の支援などでようやく暮らしていたくらいですから、この『ヒューゴ』という映画も金銭的には成功しなくても、多くの映画人の心に響くという「目に見えない成功」をおさめていると思います

多くの人に影響を与える歯車のような存在の映画があるとすればこの『ヒューゴ』はジョルジュ・メリエス監督にスポットを当てたという意味でまちがいなく影響を与えています

『ヒューゴ』という映画がジョルジュ・メリエス監督をリスペクトしすぎて興行収入でコケちゃうのは必然な気がします

だれも知らないような存在がじつは多くに人に影響を与えていて、お互いがお互いに影響を与えつつ歯車のようにこの世界は動いていきます

この世界での役目を感じさせてくれる心が温かくなる映画です

万人ウケはしませんが、この映画を好きな人はこれからも出てくるはずですので語り継がれる名作になるでしょうね

ジョルジュ・メリエス監督が、一般ウケはしないけれども映画人に知られているように、この『ヒューゴ』という映画も一般ウケしないながらも映画人に今後も愛されていくと思います

もしもこの映画を観て良さがわかる人がいたら、その人とはきっと気が合うなあと思いました

以下蛇足

ヒロインのイザベルが口に出す男性の名前について出自を知っておくと面白いです

シドニーカートン(『二都物語』に出てくる献身的な弁護士。チャールズ・ディケンズ著)

ヒースクリフ(『嵐が丘』に出てくる復讐に燃える男。エミリー・ブロンテ著)

デイヴィッド・コパフィールド(不遇な幼少期を送る少年。チャールズ・ディケンズ著)

パパ・ジョルジュが主人公のヒューゴに店の仕事をやらせる話をするとき

パパ・ジョルジュのお店のポスターなどの背景をよく見ると

バタフライの女と人面月が描かれているのがわかります

じつはこの時点ですでにヒントを出しているんですね

パパ・ジョルジュ=ジョルジュ・メリエスであると

鉄道保安係に問い詰められてとっさに詩でごまかすシーンの詩人について

クリスティーナ・ルセッティという詩人から名前をつけていると言って、当然知ってますよねって感じでイザベルが詩を朗読します(日本で言うと金子みすゞの詩を朗読されているようなシーン)

クリスティーナ・ルセッティ(クリスティーナ・ロセッティの方が一般的かもしれません。フランスが舞台だからルと発音させたかったのかも)

クリスティーナ・ロセッティはイギリスの詩人で絵画のモデルになるくらい美人さんなんですが、生涯独身を貫いた人で、奴隷制度にも反対するくらい優しい人。北原白秋が1919年に初めて「蜻蛉の目玉」という童謡を書くんですけどロセッティをイメージして短歌「クリスチナ・ロセチが頭巾をかぶせまし秋のはじめの母の横顔」まで残すくらい影響力のある詩人でした

クリスティーナ・ロセッティのお兄さんがダンテ・ゲイブリエルという人で、妹であるクリスティーナ・ロセッティが詩人として売れるためにマネージメントするのですが、その戦略は必ず挿絵をつけるというものでした

最初は純粋無垢で乙女な女性詩人というイメージをつけたかったようですが、クリスティーナ・ロセッティ自身がアーサー・ヒューズという画家に自ら挿絵を依頼するようになります

そしてアーサー・ヒューズはクリスティーナ・ロセッティの童謡集の挿絵を描くんですが、どことなく母親をイメージさせる絵なんです

おそらく北原白秋はこの絵のイメージで短歌を読んだんじゃないかと思います

外国の童謡を日本にたくさん紹介した西條八十(さいじょうやそ・早稲田大学文学部出身の詩人で『青い山脈』の作詞をした人。曲調のせいで誤解しやすいですが『青い山脈』は軍歌ではありません。1949年[戦後]に発表されています。歌詞に注目すると戦後復興の歌です)という人物がクリスティーナ・ロセッティのことも高く評価していて紹介するんですが、この西條八十という人物がクリスティーナ・ロセッティの作風に似ているとして(投稿された詩の中から)見出したのがかの有名な金子みすゞです

『童話』9月号(大正11年)に金子みすゞの『お魚』と『打出の小槌』が載り、「童謡の選後に」ということで初投稿した金子みすゞについて西條八十という人物が評しています

「大人の作では金子さんの『お魚』と『打出の小槌』に心を惹かれた。言葉や調子のあつかひ方にはずゐぶん不満の點(とぼす・ある決まった場所)があるがどこかふつくりした温かい情味が謡全體を包んでゐる。この感じはちやうどあの英國のクリステイナロゼツテイ女史のそれと同じだ。閨秀(けいしゅう・才芸に優れた女性)の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力して頂きたいとおもふ」

ところで詩の選考結果の文章だけあって選後の文章も洗練されていてすごいですね(映画の選考後の寸評を映像でやれって言われてるようなもんですからちょっとプレッシャーですよねえ)

これはぼくの勝手な推測ですが、金子みすゞは本屋さんで店番として働いていて、好きな時に好きなだけ本が読める環境にいました(金子みすゞの父親も本屋さんを営んでいますし、母親も営んでいます)

学生時代は主席で卒業するくらい頭のいい女性だったそうですから、もしかしたら金子みすゞはクリスティーナ・ロセッティの詩を読んでいた可能性があると思います

北原白秋や西條八十が読んでいるくらいですから、金子みすゞも読んでいて不思議はないと思います

そして金子みすゞは童謡詩人会の会員になっています。女性としては与謝野晶子に次ぐ二人目の快挙

この童謡詩人会には北原白秋や西條八十も所属していますから、仮に最初はクリスティーナ・ロセッティの存在を金子みすゞが知らなかったとしても、話題にのぼったんじゃないかなと思います

ちなみに金子みすゞは夫が女遊び(風俗)大好きなDV夫だったせいで、夫から淋病を感染させられます

当時は抗生物質のペニシリンが発見されていないせいで(日本でペニシリンが披露されたのは1944年)不治の病でした

そのため寝たり起きたりの生活を強いられて夫は一切の詩作を禁じて文通も禁止されてしまいます

金子みすゞは離婚をして一人娘を引き取りますが、夫が親権を主張します(当時の日本は父親に親権が認められていました)

「3月10日に引き取りに来る」という夫からの手紙を受け取った金子みすゞは、前日の3/9にたった一人で写真館で写真を撮りに行き、買ってきた桜餅を母親と一人娘と一緒に食べ、一人娘と一緒にお風呂に入ります

感染を恐れて自分は湯船に入らずに娘の身体を洗ってあげながら童謡をたくさん歌ってあげたあと、娘の寝顔を見て遺書を三通と写真館の預かり証を枕元に置き、睡眠薬を飲んで26歳で自殺します

遺言書の一通は翌日引き取りにくる夫宛に書かれていて「あなたがあげられるものはお金だけで娘にとって必要な心の糧は与えられない。私を育てた母に娘を育てさせて欲しい」と書いてありました

おかげで娘は女癖の悪いDV父親に引き取られることなく、祖母(金子みすゞの母)に育てられます

ちなみに当時は親権が父親絶対有利な制度だったため、母親が自殺する際は子供も一緒に道連れにするのが一般的でした

金子みすゞは自分だけ自殺している点が注目に値します

金子みすゞは夫のせいで文通を禁止されてしまい交流を絶たれ、詩作も禁じられてしまい、自殺する前は淋病と子育てもあって晩年は詩を残していません

地元の新聞では生涯や詩が紹介されたり西條八十がたびたび雑誌で紹介したりしましたが一般に広く普及はしませんでした

矢崎節夫という詩人がまだ大学一年生だった頃(1966年)にたまたま金子みすゞの詩が掲載された『日本童謡集』を読んで感動して古本屋を探し歩いて16年かけて金子みすゞの弟を見つけ出し、金子みすゞの清書したノートを手に入れます

それをもとに『金子みすゞ全集』を1984年に出版し、広く一般に知られるようになりました

金子みすゞの死後54年が経っています

そのためパブリックドメインのはずなのに青空文庫には掲載されていません

これは矢崎節夫が1984年に出版した『金子みすゞ全集』が著作権の二次的著作物にあたるという主張のようです

この主張によるとホームページに掲載していいのは1サイトにつき10編までだそうです(金子みすゞの詩は512編あります)

なお、西條八十が気に入った金子みすゞの『お魚』と『打出の小槌』の詩は下記の通りです

「お魚

海の魚はかわいそう。

                               

お米は人につくられる、

牛は牧場で飼われてる、

鯉もお池で麩を貰う。 

                  けれども海のお魚は

なんにも世話にならないし

いたずら一つしないのに 

こうして私に食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。」

「打出の小槌

打出の小槌貰うたら

私は何を出しましょう。

羊羹、カステラ、甘納豆

姉さんとおんなじ腕時計。

まだまだそれよりまっ白な

唄の上手な鸚鵡(オウム)を出して、

赤い帽子の小人を出して

毎日踊りを見ましょうか。

いいえ、それよりおはなしの

一寸法師がしたように

背丈を出して一ぺんに

大人になれたらうれしいな。」

有名な金子みすゞの「大漁」という詩はこれ

「朝焼小焼だ

大漁だ

大羽鰮(おおばいわし)の

大漁だ。

浜は祭りの

ようだけど

海のなかでは

何万の

鰮(いわし)のとむらい

するだろう。」

個人的にぼくがオススメする金子みすゞの詩の「こころ」はこれ

「お母さまは大人で大きいけれど、お母さまのおこころはちいさい。

だって、お母さまはいいました。ちいさい私でいっぱいだって。

私は子供でちいさいけれど、ちいさい私のこころは大きい。

だって、大きいお母さまで、まだいっぱいにならないで、いろんな事をおもうから。」

「著作権」

もっといっぱい載せたいけれど

著作権がうるさいみたい

詩を広めたいのが目的なのに

禁止にするって意味不明

あなたが作った詩ではないけど

あなたが決める著作権

by和田昌俊(金子みすゞ風)