世間ウケしない重すぎるテーマに挑戦しつつ親子愛を主軸として映像表現にこだわった作品
映像作品が大量消費される現代において映画の存在意義を今一度考えされられます
実在の事件に着想を得た映画でISILに拉致されて性奴隷となった母親が戦闘部隊を率いて息子を助けにいく物語です
主人公のバハールは弁護士でキャリアウーマンのクルド人(ヤジディ教徒)で、ある日ISILによって夫を殺され息子を連れ去られ、自身は性奴隷となってしまいます
脱出して戦闘部隊を率いるようになったバハールは息子がいるISILの司令部へ攻撃をしかけます
その作戦を協議する場で従軍記者のマチルドがバハールと出会います
マチルドという従軍記者と会話していくうちに、バハールはこれまでのつらい経験を思い出していきます
物語としてはバハール率いる元ISILの性奴隷女性たちだけの戦闘部隊「太陽の女たち」がISILの拠点を攻撃する様子を描きながら、隊長であるバハールの半生を回想シーンで語っていきます
バハールが息子への変わらぬ愛を貫く親子愛というテーマが根底にある「重い内容だけれども愛を描いている」映画なので、悲惨な過去の回想を重ねれば重ねるほど、親子愛を強調していく(絶対に息子を取り戻すという意気込み)仕掛けになっています
マチルドと寝ずの番をするバハールは会話の中でマチルドに娘がいることを知ります
そこでバハールの回想シーンに繋げる展開もわかりやすくて好印象です
バハールは息子が連れ去られていくときに「この子は正気じゃないから連れて行かないで」と嘘をつきますがISILの兵士には「おれもそうだからちょうどいい」と無理やり引っ張って行かれるところが印象的です
セリフで描写していますが、ISILのもとで洗脳教育を施されて男の子たちは強制的にISILの兵士として(例えば自爆兵として)養成されます
ISILはイカれてるという表現になっているわけです。ちなみに息子は読書好きの良い子です。もちろんイカれていません
マチルドの場合は取材でホムスにいたときに破裂弾の破片が刺さって左目を失明してしまうんですが、その際に反政府軍によって助け出されたことがセリフからわかります
これに対してバハールの場合は助け出されません
直後に開始されるバハールの回想シーンではISILに夫を殺された後、息子と共にバスに乗せられているときにバスの前方を走るISILの車を襲撃する一台の車を目撃します
結局ISILに追い返されてしまい、バハールたちは救出されませんでした(反政府軍に救出されたマチルドとの対比になっています)
でもその時にバスの窓ごしに撤退していく車の荷台に女性兵士が乗っていたのを目撃しています
これが後にバハール自身が自らも戦闘員としてISILと戦う武装集団を結成する伏線になっているのが心憎い演出でした
バハールとマチルドとの最初の出会いがじつにさりげなく描かれていて映画として面白いです
ヘリで現地に降り立ったマチルドが広報担当の女兵士に案内されて指揮官たちの会議に連れて来られます(会議といっても立ち話してる感じ)
この際にマチルドの背後(画面右側)に主人公であるバハールの後ろ姿がちゃんと映ってます
直前のカットがマチルドが空を見上げている(カメラはマチルド視点)ショットでゆっくりと画面が(視線を動かすように)左から右へと動いているんです
次にマチルドが映ったときに直前のカットの視線誘導のまま右側に注目すればバハールがいるというオシャレなカメラワークになっています(ちなみにぼくの書いた通りに目線を動かしていれば最初にバハールが映ったカットでバハールが画面=鑑賞者の方を向いているのがわかるはずです。つまり制作者の意図通りに鑑賞していればバハールと目が合うような錯覚になります)
こうしてさりげなくヒントを出しているのですが、バハールはまだ全面的に画面に主張してきません
初対面であるマチルドがバハールに注目するのと同じタイミングで鑑賞者にもバハールに注目してほしいという演出意図を感じます(そもそもバハールが画面側を見ている時、マチルドはバハールに対して背中を向けています)
指揮官のおじさんは「連合軍の空爆があるまで待て」と言ってISILへの攻撃をためらっています
奥へと逃げるように歩き出す指揮官を追いかけるように歩きながら各将校たちが意見を述べるのですが、この時もバハールは後ろのほうで広報担当の女兵士の後ろに隠れてしまって(しかもフォーカスがボヤけていて)よくわかりません(明らかに主役であるバハールをカメラの射線から切るように広報担当の女兵士が歩いているので意図的なのは明らかです。ちなみに意図的でなかったとしたらこの広報担当の女兵士を演じた女優さんは監督からものすごく怒られることになったでしょう)
最初に現地の指揮官の男にくってかかる将校たちに対してバハールの最初のセリフ「わめくのはいいけど代案はあるの?」が印象的です
ここで初めてフォーカスがしっかりと合っていてバハールの顔がハッキリとわかります(ちなみに立ち位置も先ほどのマチルドのカットの時と同じように画面右側にいて、この人物が重要人物=主役だと鑑賞者にわかりやすい構図になっています)
地雷だらけの地下道を通ろうという男たちに対して「冷静になって」と呼びかけるバハールがカッコいいです
「死ぬのが怖いなら来るな」とあおる男たちに対して「死ぬのは怖くない。勝機が見えないだけ」と落ち着いて反論するあたりがクールです
よくある男ばかりの戦争映画だったら無謀な作戦でも勇ましいことを言って突っ込んでいきますが、それに対する女性(母親)ならではのセリフ回しになっていてこの『バハールの涙』という映画がただの戦争映画ではないことがわかるようになっています
(このセリフを言う時にバハールの目のあたりに光が強く当たっていて、このセリフを強調したいという制作者の意図をヒシヒシと感じます)
この一連のやり取りをそばで見ていたマチルドが、他の人とはなにか違う雰囲気をバハールに感じ密着取材の対象に選ぶという流れがすごく自然体で良かったです
結局作戦としては地下道を攻めるのではなく、バハールの提案した丘を越えてISILの拠点を攻めるというものになります
「ありえない。相当数の男手が犠牲になる」という男に対して「女はもう犠牲になった」というセリフがよく練られていていいですね
「空爆を待つんだ。やるなら自分の部隊だけでやれ」と言われてしまうバハールが「いつだってそうしてる」と言って作戦を実行するのも重みがあります
バハールはISILの拠点に少しでも早く駆けつけて息子を救出しないといけないという事情があります(後々わかります)
早くISILの拠点を制圧して息子を救出しないと洗脳教育されてしまって、息子がISILの思想に染まってIS戦闘員(たとえば自爆兵)になってしまうことを恐れているんです
男がいつも弱腰なのに対して女(母親)は子どものためならどんな犠牲もいとわないという覚悟を感じるセリフになっていて、短いシーンなのにここでバハールという人物の印象付けや『バハールの涙』という映画が母親による戦争映画という特徴があることをわかりやすく鑑賞者に伝えています
また、色使いもキレイです
とくにマチルドが衛星電話で夜明け間際に娘と会話したあとの朝のシーン
マチルドが娘に「会いたい」と言われて、まだあたりが暗い中で涙を流します
そのあとは兵舎の朝のシーンで兵士たち(全員女性)が起きますがこの時それぞれの毛布や布団の色鮮やかなこと
映像としても凝っていて、少しずつ起き出す兵士たちをカメラがゆっくりと横にスライド(ドリーショット)しながら映していくのはとても上品でした
上品さは戦闘シーンにも表現されていて、朝になってすぐにバハールが銃声が聞こえないことに気づきます
戦闘準備完了のまま隊員たちが歌っている様子をマチルドがカメラで撮影していると遠くの地下道からISILの戦闘員が出てくるのを見つけて部隊全員でゆっくりと前進していきます
一人の隊員が突っ込んだところを撃たれてしまい戦闘開始になりますが基本的に敵であるISILがハッキリと映りません
バハールの前を横切るかのようにふらっと現れたISILの戦闘員をバハールが撃ち、味方が地下道に焼けたタイヤを投げ込んで燻し、出てきたISIL戦闘員を捕虜にするんですが派手なシーンを期待していると肩透かしにあいます
全体的に静かな戦闘シーンとなっていてかなりアッサリとしています
この辺がまるでドキュメンタリーのようでリアルであり、暴力行為そのものを否定している制作者の意図を感じます
暴力行為を否定していることがわかるのはバハールの性奴隷時代の回想シーンでも顕著です
バハールは妹とISILの戦闘員の性奴隷となってしまうのですが、妹が無理やり連れて行かれたあとは妹の叫ぶ声しか聞こえずカメラ(画面)はずっとバハールの悲痛な表情だけを映します
直接的なレイプの映像は一切映りません
そして妹がゾンビのようになってバハールのいる部屋に戻ってきた後は当然バハールの番です(買主の男は絶倫)
部屋から出て行った後の次のカットではもう行為自体が終わっていてISIL戦闘員の部屋から出てくるバハールが映ります
徹底して暴力行為自体を映そうとしません
そしてそのまま部屋に戻ろうとしたバハールが、妹がいないことに気づいてバスルームを見ると手首から血を流して死んでいる妹を見つけるという流れをワンカット長回しで表現します
行為そのものよりも結果としてある死を長く映す姿勢から、暴力行為の否定と死への深い悲しみを表現する制作者の姿勢が徹底しています
ISIL戦闘員が地下道から襲撃してきたので、バハールたちも丘ではなく地下道を通ってISILの拠点まで行くことにします(地雷の場所は捕虜に歩かせて避ける作戦)
このとき指揮官の前に捕虜を連れてきて拠点の情報を喋らせるのですがここでも一切拷問シーンがありません(捕虜も特に傷ついた様子はなさそう)
地下道を通って敵の司令部まで行くシーンはリアルに寄せているためほぼ真っ暗でなにが映っているのかわかりません(本当に真っ暗)
ハリウッド映画とかなら暗視装置の緑っぽい薄暗い映像になるんでしょうけど、バハールたちはそんな高性能装備は持っていないので、たいして明るくない光源(ライト)だけを頼りに裸眼で進んでいきます
地雷が爆発して隊員の一人がやられますがこの時も画面が真っ暗で悲惨なはずの隊員の状態を映しません
隊員の声が一言も発せられずにバハールの悔しそうな表情と小声で歌う声だけで隊員の死を表現しています
そして地上に出てからのバハールや女性隊員たちのターバンの鮮やかな色彩が綺麗です
ISIL戦闘員は主人公のバハールたち「太陽の女たち」を恐れているようです
なぜなら彼らの教義によれば「女に殺されると天国に行けない」からです
彼らISIL戦闘員にとって女に殺されることそのものが恐怖となるわけです
キリスト教でもイスラム教でも自殺は罪だと教えていますが過激なISILは「自爆による自殺は殉教となり天国へ行ける」と教えています
彼らISIL戦闘員が死をも恐れないのは殉教して天国へ行けると信じているからです
そして彼らの信じる天国では純潔(処女)の妻が用意されているそうで、その天国に行くために現世でがんばりましょうというものです
なのでこれを信じているISIL戦闘員は来世での純潔の妻(天女)と永遠に楽しく暮らすことを夢みているわけで、現世で女に殺されて天国に行けないのは何よりの恐怖なんですね
天女との性行為のために死をも恐れず戦う一方で、ISILは性奴隷という制度を現代に復活させています(ジハード=聖戦とか言ってカッコつけてるけど、SEXのことしか頭にない中学生みたい)
性奴隷にも当然ながら相場というものがあって、購入制限があるんです
一人当たり三人まで奴隷を囲うことができます
そして値段ですが、一番安いのがヤジディ教徒やキリスト教徒の女性です
40歳〜50歳で一人当たり約5000円です
10歳から20歳の女性は約1万4000円です
ちなみにサントリーの山崎700mlが一本で1万7000円くらいなので、それより安いです
バハールが劇中で言うセリフが衝撃的です
「高く売れるのは10歳くらいの娘」
「私は年寄りだった」
「4回売られた。2、3週間で飽きて売るのよ」
「外国人が多かった」
そこから回想シーンへと繋がり、大学時代の教授が代議士となっているのをテレビで観るシーンへと切り替わるのはなかなかいい演出でした
この時テレビでインタビューを受け、危険を承知で性奴隷を助けるため電話番号を公開した代議士にバハールは連絡を取って脱出します(あんな長い電話番号を一度で覚えちゃうバハールすごい。しかも通話ではなく電話番号あてのメッセージでのやりとりがリアルですね)
最終的にハッピーエンドになるのですが、バハールが息子と再会した時のカットが印象的です
爆発を受けて真っ白になったバハールに息子が駆け寄ってきて感動の再会をしますが、バハールが見上げた空には空爆によるものと思われる黒煙が上がっていて、その黒煙を手前の白煙が覆っていきます
ISILの象徴である黒(息子は戦闘員になるための養成を受けているので全身真っ黒な服装)に対してバハールの白い格好が象徴的に表現されていて、ISILをバハールたち女性部隊が倒した(ISILの洗脳教育からバハールの母の愛で息子を取り戻した)ということが表現されています
最後のマチルドが遠くを見つめる表情の長回しカットと長いエピローグが少し冗長な気もしますが(映画というよりドキュメンタリーっぽくなっちゃってる)全体としては重いテーマを扱った骨太な映画であると思います
以下蛇足
眼帯がトレードマークのマチルドという人物にはモデルとなった人物がいて、どうやらメリーコルヴィンという人物のようです
メリーコルヴィンは内戦中のリビアで最初にカダフィ大佐にインタビューした外国人記者です
『バハールの涙』では反政府軍がバイクで助け出したという設定になっていますが、実際にはホムスで砲撃を受けて死亡しています(劇中ではこの際に失明したことになっていました)
左目を失ってからはずっとPTSDに苦しめられていたようで、『バハールの涙』でも戦場を怖がっているような表情を浮かべるのはおそらくこの事実を活かしての役作りだと思います
そして娘を想いながらも従軍記者を続けている葛藤はマーサ・ゲルホーンがモデルとなっているようです
マーサ・ゲルホーンは1944年6月6日のD-デイにノルマンディに上陸した唯一の女性です
そしてヘミングウェイの3番目の妻でした(本人はそう紹介されるのを嫌っていたようです)
マーサ・ゲルホーンは孤児院から男の子を養子に迎え入れていますが親戚に預けることが多く、最終的には親子の仲は悪くなったようです
このあたりのエッセンスがマチルドというキャラクターの娘を想いながらも戦場に赴き従軍記者を続ける葛藤として『バハールの涙』で描かれています
それにしてもこの『バハールの涙』という邦題はひどいです
せっかく女性の強さを描いた作品なのにこのタイトルでは制作者の意図した方向性と違います
原題は『Les Filles du Soleil』フランス語で『太陽の娘』です
これはバハールが率いる元性奴隷の女性だけの武装部隊の名前「太陽の女たち」からきています
虐げられていても立ち上がり一矢報いるという意味と太陽の加護がある女たち(性奴隷という過去があっても太陽に照らされて明るく生きていこうという)意味合いになっていてすごく深いタイトルなんです
ヤジディ教では太陽が神の象徴となっていてシンボルマークも太陽です
タイトルが表示されるカットも太陽が映っていますし、とても大事なタイトルだと思うのになぜ邦題は真逆の意味合いの『バハールの涙』なのか理解できません
『太陽の娘たち』ではインパクトが弱いと思うのなら『アンタを殺して地獄に送る』という邦題でもつけておけば良かったんじゃないかと思います
実際、キャッチコピーは「女に殺されると天国に行けない」ですしね(むしろこっちをタイトルにすべき)
それにしてもこんなマニアックな映画の作り方をしたら大衆ウケはしないだろうなと思います
そもそも登場人物のキャラクターに実在の人物モデルがいて、性奴隷というパワーワードなのにいわゆるサービスショットは皆無だし、全体的に暴力行為の否定で成り立っているので派手なアクションシーンがあるわけでもないです
むしろ最近のハリウッドのバリバリアクション映画に慣れてしまっている鑑賞者にとっては退屈な映像とも受け取られかねないくらいすごく地味なリアリティを追求しています
この映画があまり評価されないだろうなということをおそらく制作者も感じていて、それでもこの『バハールの涙』という映画を完成させるぞという意気込みを感じます
それはマチルドがバハールに言うセリフ「一回クリックして終了なにも変わらない。人が欲しいのは将来の希望や夢なの。必死で悲劇から目を背ける。それでも真実を追い伝え続けないと」に集約されています
まさにその通りで、この映画は第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作品ですが賞は取れていません
ちなみにこの第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのは是枝裕和監督の『万引き家族』です(審査委員長はケイト・ブランシェットでした)
なお、『万引き家族』は虐待されている子どもが実の母親のもとに引き取られるという最後の展開がヨーロッパの人々に大変ショッキングだったようです(日本ではわりと普通の感覚なんですけどね)
そして最後は女の子が柵の上から頭を出して景色を眺めているラストで、フワッとしていてどこか希望を感じさせるラストカットになっていておそらくココがウケたのかなぁと推察します
(ケイト・ブランシェットは三人の男児の母)
息子を取り戻すために性奴隷だった母親が戦闘部隊を率いて決死の救出作戦を決行する『バハールの涙』と疑似家族が万引きするヒューマンドラマとでは比べる土台が違いますが、明らかに『バハールの涙』の方が重い内容です
現実に男の子を育てている母親のケイト・ブランシェットでさえ『バハールの涙』より軽い作風の『万引き家族』をカンヌ映画祭最高賞のパルム・ドールに選ぶくらいですから、世の中の女性や母親や、ましてや男性諸氏にこの『バハールの涙』は評価されないということです(じゃあ一体だれが評価するんだろう。たぶん僕みたいな変人)
『バハールの涙』はフランス映画であるにもかかわらず、他の賞も受賞してませんので、まさに「一回クリックして終了」の作品となりそうです(カンヌはフランス)
なお、『万引き家族』ではサービスショットというほど露出はありませんが生々しい性的描写があるのも『バハールの涙』と大きく違うところですね
現実に起こっていることを史実に基づいたキャラクターで訴えた重いテーマの作品はウケが悪いようです
そもそもクルド人という設定ですし、その中でも少数派のヤジディ教徒という設定ですし、無理やり襲撃されたのもクルド人自治区という特殊な場所ですし、設定からしてとっつきにくいことはたしかです(ヤジディ教徒?クルド人?となるでしょうしね)
この辺の設定のことをとっぱらっちゃうと、単純に「母親が息子を助けに行く物語」というよくあるプロットになってしまいますし、難しいところではあります
このあたりの事情をわかった上で挑戦したであろう同じ題材で『レッド・スネイク』というフランス映画もありますが、こちらの方がよりエンタメ寄りになっています
例えば主人公が19歳の処女という設定になっていたり、セリフで説明する箇所も多く初めての人でもとっつきやすい作り方です
公開されたのは『バハールの涙』の1年後ですので、『バハールの涙』と対比させるような演出をしています
例えば『バハールの涙』が夜などの暗いシーンが多いのに対して『レッド・スネイク』は昼間のシーンが多いです
主人公の女性が連れ去られるのも『バハールの涙』では夜でしたが『レッド・スネイク』では昼間です
『バハールの涙』の主人公が子持ちのキャリアウーマンに対して『レッド・スネイク』では絵を描くのが趣味の19歳の処女という設定です(どう考えても『バハールの涙』を意識して脚本書いてるような気がしてしょうがないです)
興味があれば『バハールの涙』と『レッド・スネイク』と両方見比べてみるといいかもしれません
個人的には『バハールの涙』の根幹に流れる親子愛というテーマが好みなので『バハールの涙』がいいかなと思いますが、若い女の子が壮絶な経験を経て戦闘部隊に入って弟を助けに行くというほうが一般ウケしやすいかなあと思います(『レッド・スネイク』のほうが設定上キャストが若いです)
映画的にもバハールに鑑賞者が注目するタイミングを計算しているカット(映像)や問答無用でいきなりやってきていきなり撃ち殺される理不尽さなどが描けていてリアルだったので、『バハールの涙』のほうが映画としては工夫されていると思います(そのぶん『レッド・スネイク』は難しく考えなくても説明されてたりしてわかりやすいので気楽に観れるという利点があります)
そして『レッド・スネイク』も特に映画賞などを受賞しているわけではありません
でもこういう少数の人たちに焦点を当てる大切さをこの映画から学ぶことができます
だって『バハールの涙』みたいな映画がなければそもそもヤジディ教徒という存在すらなかなか認知が広がっていきません
ヤジディ教徒とはクルド人の一部で信じられている宗教で、太陽を神の象徴としています(だからこそ主人公バハールが率いる部隊の名前が「太陽の女たち」となっているのは上述したとおり)
ヤジディ教は様々な宗教が混ざった混合宗教です
ヤジディ教徒から生まれた者しかなれず、しかも他宗教からの改宗も認めていません
布教活動も行われておらず、キリスト教徒やイスラム教徒と結婚することも禁じられています
さらに、基本的には口承で教義を伝えるため、そもそも教徒が少ないです
ヤジディ教徒の多いイラク北部では周辺の宗教勢力や武装勢力から対抗するためアメリカ寄りだったりします(ヤジディ教の天使がイスラム教では悪魔として考えられています)
フセインにも迫害されていました
ところでバハールのモデルとなった実在の人物はおそらくナディア・ムラドという人物だと思います
2018年にノーベル平和賞を受賞したヤジディ教徒の女性で、彼女の体験談(バスに乗せられ、性奴隷にされて、脱出に成功している)がバハールの回想シーンに似ているからです
ナディア・ムラドやその他の脱出できた人の話だと父親や兄など男たちは殺され、さらに母親も殺されています
つまり売れそうな若い綺麗な女性は性奴隷として取引に使うために生かしておき、年少(たとえば10歳くらいまで)の男の子は戦闘養成員として連行されています
語弊を恐れずに言えば「売れる」と判断された選ばれた者だけが性奴隷や戦闘養成員として生き残ることができ、それ以外の女性や男性はその場で殺されたということです
「売れる」判断ですが、年齢がおそらく一番大きな判断材料らしく16歳など当時10代だった女性が多いようです
この文章を読んでいるあなたは生き残る側でしょうか?それとも殺される側でしょうか?
僕はその場ですぐに殺されてしまうでしょうね
考えると恐ろしいことです
「売れる」と判断された少女たちは髪の毛をボサボサにしたり汚れを顔につけたりして戦闘員に買われないように努力したそうです(劇中で連れ去られたバハールが地面の砂を顔につけていたのはこの描写だと思います)
『バハールの涙』に登場する「太陽の女たち」という女性だけの戦闘部隊の実在のモデルはおそらく「クルド女性防衛部隊」だと思います
「クルド女性防衛部隊」は2012年に設立された18歳〜40歳の女性だけで構成される約7000人の義勇兵で、国際社会から何の資金も受け取っていません
ISILはクルド勢力のことを「キリスト教国である欧米諸国の十字軍連合の手先」と呼んで敵視しました
日本もテロリストからすれば欧米諸国の手先ですから、対岸の火事と侮っていては危険だと思います
※日本の埼玉県で問題になっているクルド人の問題については分けて考える必要があります
出稼ぎ目的(経済的理由)で来日している場合はそもそも難民申請できません
難民申請できるのは「人種」や「宗教」や「政治的意見」などの条件があります
そして難民申請すると単身者で月約7万2000円もらえます
四人家族の場合は19万2000円です
農閑期に来日して都合良く制度を利用するのは本当に難民として困っている人たちからしたら迷惑になります
川口市内のクルド人について、トルコ政府は2つのクルド人団体とその幹部など6名を「テロ組織支援者」と認定しています
クルド人全体を迫害しているのではなく、あくまでもクルド人の中に存在している「テロを支援する者」を迫害しているだけです
ですが十把一絡げに迫害されたと主張するのはおかしいと思います
(トルコは皆兵制度なので兵役拒否したら罰金を取られますがそれを迫害だと主張するクルド人もいるようです。兵役に就いたらPKKというテロ組織と同じ民族同士で戦うことになるからイヤだという気持ちもあるかもしれませんが・・・)
誤解のないように書いておきますが、川口市の外国人住民は約20年間で約2倍に増えています(2004年に1万4679人→2023年に3万9553人)
そのうちクルド人を含むトルコ国籍者は約1200人なので少数派です
そして同時期の刑法犯認知件数は1万6314件から4437件と激減しています
外国人による犯罪が「あった」ことは事実かもしれませんが「増えた」ということは考えにくいです
しかし騒音トラブルやゴミ出しマナーなどでの「刑法犯罪ではない」トラブルは多くあるようです(当事者にとっては大問題)
現在の日本は解体業などを中心に日本人がやりたがらない仕事を外国人(例えばクルド人)にやらせています
外国人との問題を各市町村に国が丸投げしてしまっている状態では混乱するのも無理ないです(川口市長は国に要望書を出して彼らが就労できるように改善してほしいと意見を述べています。これにより特別在留許可が与えられ、「監理措置」という制度が導入されて就労することが可能になりました)
国としては移民をなかなか受け入れたがらない日本人に対してズルズルと既成事実(現実)として移民を受け入れています(ちなみにクルド系移民が最も多く住んでいる国はドイツ)
これから先もこうした外国人が増え、そのたびに問題が起こっていくでしょう
我々日本人も少子化が加速度的に進み、クルド人と同じような末路を辿るかもしれません
クルド人は約4600万人います(国を持たない最大の民族と呼ばれています)
日本の人口は2100年には4771万人になると予想されています
日本人はその時ちゃんと自分の国があると自信を持って言えるでしょうか?
中国領日本人自治区となっているのか、はたまたアメリカ合衆国日本人自治区になっているかもしれません(本当の意味で独立できていないという点ではクルド人のクルディスタン地域みたいです。劇中の「自由クルディスタン万歳」とバハールが叫ぶセリフもあります)
日本人そのものが少なくなりヤジディ教徒のように迫害を受ける未来が待っているかもしれません
2050年の日本は、現在人が居住している地域の20%が無居住化すると予想されています
無居住化した地域に移民が押し寄せればそこは日本人の住む地域と言えるでしょうか?
このままなにもしなくても国土の1/5が簡単に他国の(事実上の)領土になりそうです
国土を他の民族に取られ、自分たちが少数民族となった時、この映画『バハールの涙』のような悲劇が起きるわけで、決して我々日本人も他人事だとは思えません
なお、性奴隷や戦闘養成員として連れ去られた6500人のうち、いまだに2000人の行方がわかっていません
ISILの衰退とともに国際社会の関心が薄れていっています
他にもウクライナやガザなど毎年のように国際社会は新たな問題が起きています
中国でもイスラム教徒のウイグル族が100万人も拘束されて拷問を受けています(中国政府は証拠がないと否定しています。そういえばコロナウィルスも武漢の研究所から流出した説がありましたが証拠がないということで否定していますね)
中国の貧しい農村では奴隷売買のようにして連れてこられた女性と農家の男性が結婚している例が多いです
日本人も同じようになるかもしれません
30年以上も経済成長できず物価ばかりが上がって日本人の暮らしぶりが悪くなっています
いずれは、経済成長している他国へと人身売買のように売られていくようになるでしょう(すでに日本人女性は出稼ぎ売春を警戒されて入国が厳しくなっている国があります)
貧しい少数民族になると(日本人が今そうなってきていますが)悲惨な出来事が発生する可能性が高いです
アメリカと中国の対立が激化していく今日、中国領日本人自治区かアメリカ合衆国日本人自治区のどちらになっていくのか日本人として危惧しなければいけません
本当の意味で日本が独立国家として存続していくためにも日本人がもっと選挙に行って政治に関心を持つことが大事です(日本の政治家は大抵の場合、中国寄りかアメリカ寄りかのどちらかです。そして日本人の投票率は低いです)
なにも考えずにいると少数民族となっていく日本人の運命が悲惨なものになることをこの『バハールの涙』という映画を観ると考えさせられます
人々が「一回クリックしたら忘れる」出来事をたとえ映画祭で受賞できなかったとしても映画として誰かの心に届くように作り上げたことは賞賛に値するとぼくは思います
この『バハールの涙』という映画が少しでも多くの人に、関心が薄れていくテーマを思い出すキッカケとなることを願っています